神経学の源流 3 ブロカ
「神経学の源流 3 ブロカ (萬年甫・岩田誠編訳, 東京大学出版会)」を読み終えました。「神経学の源流1 ババンスキーとともに-」、「神経学の源流 2 ラモニ・カハール」に続く三作目です。
ガル Franz Joseph Gall (1758.3.9~1828.8.22) による「骨相学」からブームとなった脳の局在論が、ブイヨ Jean-Baptiste Bouillaudらの主張を経て、Broca, Edouard Hitzig らによって確立していくまでの流れが生き生きと伝わってきて楽しめました。また、古典的な失語症研究の流れを知ることができました。
何よりも、Brocaらの重要論文の全訳を読むことが出来たのが、本書から一番恩恵を感じた点です。
とても内容の深い本であり、「哺乳類による辺縁大葉と辺縁溝」という論文以外は解剖学的知識もあまり要求されないので、失語症に関わる多くの方に読んで欲しいです。
以下、備忘録。
・ピエール・ポール・ブロカ Pierre Paul Broca (1824.6.29~1880.7.7) はボルドーの東 60 km、ドルドーニュ川沿いの小さな町「サント・フォワ・ラ・グランド Sainte-Foy-la-Grande」 で生まれた。父親は開業医、母親は牧師の娘であった。一家はカルヴァン派の信徒だった。
・サント・フォワ・ラ・グランド出身の著名人に、高名な解剖学者ピエール・グラチオレ Pierre Gratiolet (1815~1865) がいる (脳の局在説には反対の立場であった)。
・ブロカはギリシャ語をきわめて得意とし、英語と独語をフランス語の如くこなし、デッサンに秀で、ホルンの優れた奏者であった。
・ブロカは 33歳の時に、アデール・オーギュスティーヌ・ルゴール Adele Augustine Lugol (1835~1914) と結婚した。オーギュスティーヌの父は、ルゴール液を作ったルゴール博士だった。ルゴール博士は、結核性リンパ腺炎や甲状腺疾患のヨード療法などで有名な医者だった。
・ブロカは、1880年2月に終身上院議員に選出された。1880年7月7日、右肩に疼痛を覚え、上院を途中退場して帰宅し、同日深夜ただ 1回の狭心症発作で死亡した (と書いてあるけれど、亡くなっているから心筋梗塞なんでしょうね)。享年 57歳だった。
・ブロカは、大脳皮質運動性言語中枢を発見したのみならず、ドゥシェンヌ・ド・ブローニュ Duchenne de Boulogne (1806~1875) より以前に筋萎縮症を筋肉の原発性疾患として記載しフィルヒョウ Rudolph Virchow (1821~1875) より以前に佝僂病を栄養性疾患と認定し、ロキタンスキー Karl von Rokitansky (1804~1878) より以前に癌の静脈性転移を報告した人としても評価されている。
・1868年、サント・フォワ・ラ・グランドから東に 40マイルほどに位置するクロマニヨン (Cro-Magnon) 洞窟から、鉄道敷設工事中に人骨が発見された。ブロかはこの人骨を調査し、人類学会に報告した (クロマニヨン人最初の報告)。
・ブロカの生まれた 19世紀の始め頃には、脳には “シルヴィウス溝” と “島” しか命名されていなかった。シルヴィウス溝は 1641年にバルトリン父子がシルヴィウスに因んで命名し、島は 1809年にドイツのヨハン・クリスチアン・ライルが「シルヴィウス窩」と題する小論文で最初に記載したと言われている。次に命名されたのがローランド溝で、1839年にブロカの師の一人であるルーレが、この脳回の存在を指摘したローランド (1773~1831) の名前を付した。前頭・頭頂・側頭・後頭葉の脳葉区分は、1838年にハイデルベルクの解剖生理学教授アーノルド (1803~1890) に拠る。
・Broca失語として最初に報告された患者 Leborgne (ルボルニュ) は「失語症 (Aphémie) の 1例にもとづく構音言語機能の座に関する考察」という 1861年の論文に登場する。その論文の第一部で、Brocaは構音言語の障害に対して “aphémie (αは否定接頭語、φημは私は話すの意)” という言葉を与え、言語中枢が存在する回転 (=脳回) を論じている。第二部では、相手の言うことはわかるが、”tan” としか発語しない男性 Leborgneの症例が記載されている。Brocaは剖検脳を調べ、左第 2, 3前頭回を中心とした限局性の強い損傷を指摘した。また、この論文では、「内部のことについては、私は検索することをあきらめた。私はこの脳をこわすことなしに博物館に保存しておくことが大切であると考えたためである」という有名な記載が確認できる。
・続いて、Brocaは 1861年に 2例目の患者を「第 3前頭回の病変によって起こった失語症 (aphémie) の新しい症例」として報告している。症例は Lelongという 84歳の脳卒中の土工。次の 5つの臨床的特徴がみられた。すなわち、①彼は人が彼に言うことはすべて理解していた、②彼は彼の語彙 (vocablaire) である 4つの言葉を明瞭に使い分けていた、③精神的に健全であった、④彼は数の勘定 (numeration ecrite) を少なくとも 2桁までは知っていた、⑤彼は言語の一般的機能 (faculte general du langage) も、発声 (phonation) や発音 (articulation) のための筋の随意運動性も失ったわけではなく、したがって彼が失ったのは構音言語 (faculte de langage articule) だけであった。剖検では、左第 2, 3前頭回に病変が見られ、後者の損傷が強かった。
・Brocaは “aphémie” の語を用いたが、Armand Trousseau (1801~1867) は、この語がギリシャのプラトンの対話篇の中にある “infamie” (汚辱、不名誉) の意味に通ずるという点から退け、代わって “aphasie” の語を用いることを提案した。Brocaは Trousseau宛の公開書簡を発表して自己の立場を主張するとともに、生涯 “aphasie” の語を用いなかった。
・1863年1月1日、ブロカはビセートル病院を去って、シャルコーやヴュルピアンのいるサルペトリエール病院外科に移った。
・Brocaは、1863年4月2日に人類学会で、自験例 2例、シャルコーの 4例、ギュブラーの 1例、トゥルーソーの 8例を検討して、すべての症例で損傷が左側にあったことを発表した。
・Gustave Daxは、1863年3月26日に、「思考の記号の忘却に伴って生ずる左大脳半球の病変」と題する論文を医学アカデミーに提出した。第 1部は父 Marc Dax (1770~1837) の手によるもので、剖検を伴わない 40例を根拠に、”左半球に損傷があると、必ずというのではないが、言葉の記憶に変化が起こる。しかし、この記憶が脳のなんらかの病変で変化するとすれば、その原因は左半球に求めなければならず、両半球がやられた場合もそうするべきである” と結論した。この第 1部の内容は、1836年7月の南フランス医学会で Marc Dax発表したという。第 2部には、ギュスターブ自身の症例と、ブイヨの文献 140例を加えて補足したものだった (※本書には、Dax父子の論文の全訳が収載されている)。ギュスターブは、亡父マルクが「失語症は左半球に損傷がある」ことの最初の発見者、自分を第二の発見者と主張した。ブロカの論文は引用されていなかった。Dax父子の論文の要約は、1865年6月25日発行の医科学週間新聞に掲載され、全文は1877年のモンペリエ医学誌に掲載された。
・1865年4月4日の医学アカデミーで、左半球優位についての優先権が、Broca, Daxいずれに帰するか、議論となった。Brocaは、1836年に Marc Daxが発表したとする痕跡が、あらゆる文献に存在しないことを指摘した (1836年7月1~10日に第 3回南フランス医学会が開催されたが、議事録は残っていない。ラ・ルヴュ・ド・モンペリエという雑誌には、学会で行われた論議の大要が載ったが、言語問題については何も記載されていない)。さらに、1877年5月15日にある論文を審査した際の報告後、質問を受けて、Brocaは Marc Daxと Gustave Daxの 2つの原稿のスタイルが異なることを指摘し、「Marc Daxの原稿が 1836年の学会のために用意されたが、学会には提出されなかったし、公表されなかった」ことを述べた。
・これに対して、 Gustave Daxは、1836年の発表後に、その論文は Dax父子によって写され、多数の同僚、同級生、友人、モンペリエの医学部教授などに配布されたとした。1879年にケゼルギュ R.Caizerguesの調べたところによれば、モンペリエの医学部長であった彼の祖父の残した書類整理中に、マルク・ダックスの論文の写しを発見したという。
・著者らは、「”失語症は左大脳半球に損傷” があるという命題についての優先権は、年月の上から見てマルク・ダックスにあるといえようが、現在残されている資料を見るかぎり、ブロカがマルク・ダックスの論文を “公表されなかった” と判定するまでの過程は、公正で妥当であったと思われる。いずれにせよ優先権をめぐる問題には、あらゆる場合に胡散臭さがつきまとうのが世の常で、この場合ダックス側にその匂いが強いように思われる」としている。
・1870年、大脳皮質機能局在説は、フリッチュとヒッチッヒによる「大脳の電気的興奮について」と題する論文により強力な支持を受けることとなった。ヒッチッヒ Edouard Hitzig (1838~1907) は、1875年にチューリッヒの精神科教授、精神病院 Burgholzli Asylumの院長となった。その翌年、Von Monakowが彼の門を叩いている。ヒッチッヒは、神経学はロンベルグ Rombergから、病理学はトラウベ Traubeとフイルヒョウ Virchowから、生理学はデュ・ボワ・レイモン du Bois-Reymondから、精神科はグライジンガー Griesingerとカール・ウエストファール Carl Westphalから大きな影響を受けたと言われている。ヒッチッヒは様々な人や組織と諍いを起こし、1879年にフォレル August Henri Forel (1848~1931) が後任としてやってきた時、病院はまさに混乱状態であったという。フリッチュ Gustav T. Fritsch (1838~1891) は、ヒッチッヒと同年の生まれでさるが、熟練者としてヒッチッヒに協力した。「大脳の電気的興奮について」は、ヒッチッヒが 32歳のときに書かれたもので、当時ベルリンの生理学教室に研究設備がなかったときに、最初自宅の婦人の裁縫台の上で実験していたという逸話が残っている。
・本書には、「大脳の電気的興奮性について (Ueber die elektrische Erregbarkeit des Grosshirns)」と題された論文の全訳が掲載されている。「一般的にいって、運動性の部分は前よりの方に、非運動性の部分は後ろよりの方にある。-運動性の部分を電気的に刺激するとそれと反対側の半身にいろいろの組合わせの筋収縮 (Muskelocontractionen) が起こる」「きわめて弱い電流を用いると、一定の限られた筋群に筋収縮が起こる。同じ場所ないしはそれにきわめて隣接した場所を、もっと強い電流で刺激すると、他の筋群さらには同側の筋群にも直ちに反応が表れる。しかし,限られた筋群を単独に興奮させるには、非常に小さな場所をきわめて弱い電流で刺激した場合に限られる。われわれはこのような場所を簡略に中枢 (Centra) とよぶことにしたい」「生理学的に非常に興味のある刺激因子について、是非とも一言ふれておきたい。それは陽極が必ず優勢であるということである」「われわれの実験動物の中の 2例では、こうした後続運動に続いて典型的な痙攣発作が起こった」「最後に、不思議に思うことは、非常に有名な学者を含む過去の多くの研究者たちが、なぜ反対の結果に到達したかということである。これに対してはわれわれの答えは唯ひとつ、”方法が結果をつくり出す” (“Die Methode schafft die Resultate”) ということである」などといった記載など。
・フリッチュとヒッチッヒの論文は、フェリア D.Ferrier (1843~1928) によるイヌやサルを用いた詳しい刺激実験によって裏付けられた。その後、マイネルト Th. Meynert (1833~1892) のもとに学んだ精神科医ヴェルニッケ (1843~1905) が重要な役割を担った。ヴェルニッケは、師マイネルトによる精神活動が連合線維に拠るとする考えを言語機能に応用した。1874年、ヴェルニッケは「失語症症候群 (Der aphasische Symptomcomplex)」という処女論文を書いた。ヴェルニッケは、そのなかで、感覚刺激が外界から脳に送られてそこで受容されると、大脳皮質にはその刺激の “記憶心像 (Erinnerungsbilder)” が残り、これは外界からの刺激がなくても想起されるようになると延べ、このような “記憶心像” は大脳皮質のなかで側頭-後頭葉領域に形成されると考えた。ヴェルニッケは、”音響心像” の生じる場は、師のマイネルトが聴覚線維の投射部位として “音響領野 (Klangfeld)” と名づけた場所すなわち側頭葉上部に相違いない、そしてそこから発した連合線維が前頭葉に至り、”心的反射現象 (psychishe Refleaction)” として発語現象が起こると考えた。そして、ヴェルニッケはこの “音響心像” の生ずる場が損傷を受けると、話された語の復唱が不能となり、語を理解することができなくなることを指摘し、今までに報告されたことのない 2例の自験例を記載した。第 1例は 59歳の女性で、人が彼女に話しかける言葉を全く理解できないにもかかわらず正しく話すことができた。また話し言葉の中に言い間違いすなわち錯誤がみられ、復唱も障害され、読み書きができないことも観察された。第 2例は 75歳の女性で、同様の症状を呈して死亡し、剖検で左上側頭回に軟化のあったことが確認された。
・本書 (p148~149ページ) には、ブロカによる Broca失語の一例目の患者の CT写真が掲載されている。その写真の分析は、ブロカが残した病巣の広がりに関する記載を再確認するとともに、一方ではヴェルニッケ領域が侵されないで残っていること、他方で大脳基底核ことにレンズ核が大きな損傷を受けていることを示した。
・Brocaは、1878年、死の 2年前に「哺乳類による辺縁大葉と辺縁溝 (※本書に全訳収載)」と題した大部の論文を著した。この論文は、1950年にフォン・ボーニン von Boninによって再発見されるまで、72年間休眠を続け、この長い間にこの論文に言及したのはわずかにスーリー J. Souryとラモニ・カハールの 2人のみであったという。ボーニンが、”Essay on the cerebral cortex” のなかで、ペイペッツ Papezの有名な回路が不思議にもブロカの辺縁大葉を思い起こさせると指摘して、やっとブロカの名が返り咲いた。それ以後、”辺縁大葉” の名は “辺縁系 (limbic system)” と置換えられて、随所で用いられるようになり、今日に至っている。