物理講義

By , 2007年5月29日 10:08 PM

「『湯川秀樹 物理講義』を読む(小沼通二監修、講談社)」を読みました。

結論から言うと、「理解できなかったけど面白かった」です。この本は、湯川秀樹氏が晩年日大で行った講義を本にしたものです。内容はニュートン力学、量子論、特殊相対性理論、一般相対性理論を扱っています。ローレンツ変換、シュレディンガー方程式といった、名前しか聞いたことのない専門用語を普通に使用して話していますので、とまどいます。注釈がしっかりしているのでありがたいのですが、注釈の意味がまたわからない・・・(笑)

ただ、こうした理論は理解できる人の方が少ないのであって、考え方に触れるだけで、思索のネタになります。

本書は、3日分の講義を纏めたものですので、第1日、第2日、第3日と分けてあります。読みやすい構成です。

昔、駿台予備校で、「F=ma」ではなくて「ma=F」なんだと習いましたが、これがマッハ流派の考え方だと本書で初めて知りました。このことについては、湯川先生は結構厳しい意見を言っています。

マッハ流の考え方が非常に困ることは、ニュートンの運動方程式を見て、左辺から右辺を出すというふうなことを考えることです。それは、出来たものを後からかれこれ言うことも結構ですが、しかしそれは自分が生み出すということとはまったく違うことなのですね。

ちなみに、私は大学で、m=F/aで、ニュートンは質量を規定したかったのだと習いました。

こうした哲学的問題を湯川先生が感じたきっかけが記載されています。文中の「プリンキピア」はニュートンの著書です。

こういうことを考えておりますと試験はすべて落ちますから(笑)、そういうことははなはだ非能率的です。実際、私は若いときはこういうことは考えなかった。こんなことを考えていますと、とても相対論とか量子論に行けんのですね。(笑)そういうところには、合目的的にというのか最小作用の原理というのか知りませんが、早く言えば、第一線につくことも大事でありますから、ほどほどにしといたというわけです。

ところが、大学教授になりますと、講義をせんならんわけです。今日やっとるのは大学教授としての講義ではない。これは講義じゃないんです。なんて言うたらいいのかわかりませんけれども、勝手に言うとるだけです。(笑)しかし、とにかく大学教授になると講義をせんならん。力学から講義を始める。つまり、さっきから話しているようなニュートン力学ではなしに、教科書に書いてある型のごとく力学の講義をしようと、弾性体とか流体などをやったわけです。

講義するのはどういうことかと言いますと、自分でわかっていなけりゃ講義できないんです。わかっていなくても講義するという技術はあるかもしれません。(笑)ときにはそういうことはあっても、それは出来るだけ少なくないと困ります。でも、何よりも、はじめから自分の納得がいかないというのが困るわけです。で、『プリンキピア』にもあたってみますと、いろいろ変なことが書いてある。そこで感ずることは、われわれはきちっとした形のものを習うけれども、それを作り出した人というのは非常にいろいろなことを気にしておるということです。気にしておるのがあたりまえじゃないですか。

内容が脱線しますが、ニュートンの逸話について、笑える話が紹介されていました。迂闊なところだけは、ニュートンと勝負出来ますね。

私の小さいころに、ニュートンという偉い人について、いろんな本に書いてあった逸話が二つあります。一つはですね、彼、一生懸命に勉強しておってですね、お腹が空いてきたから、卵を鍋にほうりこんだところが、卵でなくて時計が茹で上がっていたという話です。つまり、われを忘れて勉強しておる。模範的な学者である。(笑)皆さんももっと勉強しろ、それくらいにならなきゃ偉くなれないぞという話です。もう一つの話も似ておりまして、彼は猫を飼っておった。猫が隣に行くのに、通路として塀に穴をあけておいてやった。その猫が赤ん坊を生んだら、子猫のためにもっと小さな穴をあけてやった、という話です。この二つの逸話は非常によく似ている。そのくらい迂闊でないと偉い学者になれない。(笑)

本書の終わりの言葉が洒落ています。広い視野を持つことが大事です。

われわれの眼の網膜には中心の辺に非常に感度がいいところがあって、そこで見るように、視線は動きまわるわけです。ところが網膜というのはずっと拡がっていて、中心から外れたところもある程度見えている。つまり、中心に非常に感度のいいところがあるが、しかしそのまわりにも裾野が広がっている。これ、非常に大事なことなんです。このまわりところも見えとるから、横から変な奴が入り込んでくるとハッとする。(笑)

(略)

人間の眼で、視線の中心のまわりもぼんやりと見えているということが、非常に重要なんです。中心に非常に感度のいいところがあるということ、しかしそのまわりにも見えるところがあるということ、この両方が必要なんです。

人間の精神活動、知的活動、人間の生き方、学問するのでもなんでもいいですけれども、そこでもこの両面を活用している人が賢い人だと言えるでしょうね。片方だけの人はあまり賢いとは言えない。あんまりシャープだからといって裾野がまったくない人というのは、全部がぼやけている人と大差はないということになってしまう。この話はこのくらいにして、後は皆さんがどう思うかということにおまかせします。これで私の話を終わりにします。

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