「科学者の楽園」をつくった男
「『科学者の楽園』をつくった男 大河内正敏と理化学研究所 (宮田親平著, 河出文庫)」を読み得ました。今話題の理化学研究所の創設期の話が中心です。この研究所を「科学者の自由な楽園」と表現したのは、ノーベル賞を受賞した朝永振一郎です。
理化学研究所は、日本に基礎科学を根付かせようという目的で、大正 5年に設立されました。応用科学は基礎科学の上に成り立つもので、基礎科学が疎かであっては限界があるからです。これには、高峰譲吉や、彼を認める渋沢栄一が尽力しました。こうして設立された理化学研究所でしたが、資金難が続きました。そこで理化学研究所で開発されたものを商業化する流れが出来、ずいぶん研究費の助けとなりました。当初の主力商品はビタミンAであり、合成酒でした。やがて、商品が増えるに従い、さまざまな会社が設立され、コンツェルンとなっていきました。軍との取引も増え、太平洋戦争末期には原子力爆弾の開発研究もしていたようですが、必要な量のウランを入手できるための技術はなかったようです。戦後は新しい研究所として出直すことになりました。
本書を読んでいてとにかくワクワクするのは、有名な科学者がたくさん登場し、彼らの顔が見えるような描写がたくさんあることです。高峰譲吉、池田菊苗、長岡半太郎、寺田寅彦、鈴木梅太郎、仁科茂雄、朝永振一郎、湯川秀樹・・・。その他、田中角栄や武見太郎といった有名人もたくさん登場します。
STAP細胞の問題で揺れている理化学研究所ですが、綺羅星のごとく活躍した科学者達にとってどれほど素晴らしい研究所であったのか、是非一度読んでみて頂きたいです。
以下備忘録。
・グルタミン酸が「うまみ」の素であることを明らかにした池田菊苗は、ロンドン時代、夏目漱石の下宿先にお世話になったことがあった。
・池田菊苗は「研究の先鋒になって指導していく力がおとろえてきたと感じたら、新進気鋭の人に席をゆずって、自分のできることをするべきである」といい、定年の一年前に大学を退いた。
・明治時代、大学の予算には研究費はなく、教員たちは学生のための実験費をかすめて研究をするほかなかった。
・当時の日本では基礎科学が極めて疎かにされていた。これを改善しようと、1913年6月23日、築地精養軒に渋沢栄一らが集まった。そこで高峰譲吉が「国民科学研究所設立について」という大演説をぶち、研究所設立に向けて運動を始めた。
・高峰譲吉はアメリカでウイスキーの効率的な醸造法を開発して特許をとった。それがモルト業者に脅威を与え、彼の製法を取り入れた工場は放火され、会社は突然解散した。その頃、高峰は肝臓病で死線を彷徨っていた。妻カロラインはみずから奔走して列車を自宅前に停車させ、瀕死の夫をシカゴにともなって手術を受けさせた。
・理化学研究所は、当初「化学研究所」となる予定だったが、カテゴリーが小さすぎるため物理も加えて「理化学研究所」となった。
・理化学研究所の初代所長は菊池大麓が就任した。しかし、彼は就任後五ヶ月で急逝した。次は古市公威がその任についた。ところが物理部と化学部の対立により、物理部長の長岡半太郎と化学部長の池田菊苗が辞表を提出し、古市も健康上の問題を理由に辞任した。渋沢栄一は山川健次郎を三代目所長にしようとし、原敬首相までのりだして山川を説得したが、山川は固辞した。山川が代わりに推薦したのが、貴族院議員の大河内正敏だった。大河内正敏は寺田寅彦と親交があった。
・大河内正敏は、大正天皇の皇太子時代の御学友で、明治天皇に可愛がられ、膝の上に乗せられたことがあった。
・大河内正敏は、漱石の『坊っちゃん』の主人公が学んだことになっている東京物理学校の校長をしていた。
・大河内正敏が三代目所長に就任したとき、物理部と化学部は対立していた。そこで彼は化学部と物理部を解消し、部長という職制もとりはずし、主任研究員制度を設立した。予算は研究室ごとに割り当てられ、主任はその予算内で室員の給与と研究物件費をまかなったが、配分をどのようにするかは裁量にまかされた。初代主任研究員は、長岡半太郎、池田菊苗、鈴木梅太郎、本多光太郎、真島利幸、和田猪三郎、片山正夫、大河内正敏、田丸節郎、喜多源逸、鯨井恒太郎、高嶺俊夫、飯盛里安、西川正治であった。
・喜多源逸が京都大学に転出した後、福井謙一がその門下に加わった。
・朝永振一郎が所属していた仁科芳雄の研究室では、全員にアダ名をつけて呼び合っていた。仁科は「親方」もしくは「パイパン (顔が白いため)」、朝永は「シャコ」と呼ばれていた。
・朝永振一郎の下宿には、彼の父が親友の西田幾多郎に「古人刻苦光明必盛大」と揮毫してもらった掛け軸があったが、朝永は終始叱られている気がするとして返してしまった。
・朝永振一郎の友人小川秀樹は、湯川家に婿入りして湯川秀樹となった。妻は、夏目漱石が胃潰瘍で入院した胃腸病院長である湯川玄洋の娘スミだった。彼女は漱石の『行人』の中でモデルとして描かれている。
・田中角栄は 1934年3月27日に、新潟県柏崎駅から上京してきて、翌日に大河内正敏の家を尋ねたが、会うことができなかった。しかし、その後設計士となって仕事を続けていたある日、エレベーターの中で大河内正敏と会ったことがきっかけで、交流が生まれた。
・理研の三太郎 (3人の太郎) の一人、本多光太郎は、冶金学の権威だった。彼は昭和 6年に東北帝大総長となったが、教育勅語を読むと誤読だらけだった。誤字が多く、昭和を照和と書くこともあった。一方で理財感覚はあり、太平洋戦争で仙台が火の海になったとき、「すぐ大学周辺の土地を買い占めよ」と指示したと伝えられている。
・保険外交員であった市村清は、理研感光紙の販売代理業の契約を理研に求めたが、ケンもホロロにされた。そこで理研コンツェルンのトップである大河内正敏に直談判し、認められた。市村は大河内のもとで数社の役員を務めるとともに、カメラ会社の旭光学を合併して理研光学という会社の社長になった。理研光学が、のちのリコーである。
・後に日本医師会会長となる武見太郎は、寺田寅彦を愛読していた。慶応大学の内科では、煙たがられ干されていたが、北大や東大などで診断がつかず苦しんでいた中谷宇吉郎の病気が肝臓ジストマ (肝吸虫) だと診断をつけ、アンチモン療法で全快させた。中谷宇吉郎を武見太郎に紹介した岩波書店社長の岩波茂雄らも後に肝臓ジストマであることが判明したが、これはある料亭で寒ブナを食べたメンバーだった。この件を契機に、武見は仁科茂雄に紹介された。最終的には仁科に誘われて、慶応大学をやめて理研に就職した。
・仁科研究室では放射性物質を扱っていたため、白血球減少症を呈する研究者がおり、武見は豚の肝臓から抽出したペントースヌクレオチドを治療に用いた。後に、広島、長崎に米軍医療団が持ち込んだのも、ペントースヌクレオチドだった。
・武見太郎は、昭和 12年の支那事変のときから世界戦争を予測し、水の心配のない疎開地を求め、そこに本を送り母を住まわせていた。太平洋戦争では、それが役に立った。
・武見太郎は、高峰譲吉の弟の家に出入りをしていて、その紹介で枢密顧問官南弘を治療した。南弘の人脈から牧野伸顕の次女の娘と見合い結婚した。そこで、吉田茂と姻戚関係が生じた。
・広島に原爆が落とされた後、仁科は現場に調査に赴いた。赤十字病院にあった写真乾板が現像の結果黒くなったことから、放射線が照射されたことは間違いなく、原子爆弾と推測した。
・戦後、大河内正敏は戦犯として、科学者では最初に逮捕命令を受けたが、昭和 26年に追放指定解除を受けた。
・戦後、朝永振一郎は弾道試験用の細長いトンネル中に住んでいた。「長多時間理論」で朝日文化賞を受け、賞金のおかげで畳を敷くことが出来た。
・昭和 21年に理系コンツェルンの解体命令が出された。昭和 23年3月に、理研は株式会社科学研究所と名前を変えて発足した。資金を稼ぐ必要があり、仁科はペニシリンの生産を目指した。昭和 30年には、科研を半官半民の特殊会社にすべく、「株式会社科学研究所法」が提出された。しかし収支が悪く、「理化学研究所法」を成立させて、昭和 33年10月に特殊法人理化学研究所が誕生した。初代理事長は長岡半太郎の長男長岡治男だった。昭和 38年に理化学研究所は和光市に移転した。