解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯
「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯 (ウェンディ・ムーア著、矢野真千子訳)」を読み終えました。
ジョン・ハンターについては、医学史関連の本に頻繁に登場する割には、「外科医の父」「無駄な手術をしたがらなかった」「死体泥棒としての影の部分」等の断片的なキーワードしか知らなかったので、一度きちんとした本を読みたいと思っていました。この本は期待に十分答えてくれるものでした。また、ヨーゼフ・ハイドン、ウィリアム・ハーヴェイ、アストリー・クーパー、デイヴィッド・ヒューム、アダム・スミス、ベンジャミン・フランクリンなど有名人がたくさん登場するのにも、読んでいてワクワクさせられました。
ハンターの住居はハンテリアン博物館となっているようなので、将来是非行きたいです。
以下、備忘録。
・ハンターの時代、膝窩動脈瘤は貸し馬車御者の職業病だった。当時の一般的な治療は下肢の切断術だった。そうしなければ、動脈瘤破裂で死ぬことになる。ハンターは動物実験を繰り返し、動脈瘤の中枢側を結紮する方法を編み出した。その患者が別の原因で亡くなった後、脚は標本になった。ハンテリアン美術館で標本 P275, P279として保存されている。
・ハンターの兄ウィリアムズは、解剖学を学び、ロンドンに講座を開こうとしていた。死体で練習をしていない外科医が初めてメスを入れるのは生きた患者となるため、ウィリアムズは解剖実習が必要だと考え、それを講座のウリにしようとした。ところが、献体という概念が生まれる前の時代であり、保存技術もなかったので、解剖用の死体が足りなかった。ウイリアムズは、死体調達をさせる目的もあり、勤務先の材木商が倒産して暇になっていた弟ジョン・ハンターを呼び寄せた。
・当時は、墓泥棒の他、死刑囚の遺体を手に入れる方法があった。その時代の絞首刑は、方法の問題で頚椎損傷ではなく、窒息が死因になることが多かった。そのため解剖台で息を吹き返すこともあった。
・ウィリアム・ハーヴェイは、自身の家族が死んだ時、遺体を検死解剖した。ハーヴェイ自身は死んだ時に鉛の棺に入れて鍵をかけ、解剖学者の手に渡さないように言い遺した。
・ジョージ四世の手術を執刀し、クーパー靭帯に名を残したアストリー・クーパーは、死体泥棒に指示したことを認め、1828年の国会特別調査会で「患者の病状を知るためにはだれかがそれをしなければならない」と開き直る証言をした。
・18世紀のパリでは膀胱結石に対する石切術で 5人中 2人が死亡していた。方法は、直腸に指を入れて石を皮膚側に押し出し、会陰部を切開するものだった。経尿道アプローチする方法もあった。チェゼルデンは、フランスからの巡業医師フレール・ジャック・ド・ビューリーが会陰部から 1 cm側方を切開するのを見て、自宅での解剖実習で学んだ知識と併せて、 1725年に側方切石術を編み出した。死亡率は 10人に 1人未満になった。ハンターは兄の元で解剖学を学ぶ一方、チェゼルデンの元で外科医としての修行をした。
・ハンターは解剖学での分析によく味覚を使っていて、生徒にも使わせた。「胃液は透明に近い液体で、味はやや塩気がある。精液は匂いも味もやや吐き気をもよおす感じがするが、口の中にしばらくふくんでいると香辛料のようなあたたかみが生まれ、それがしばらくつづく」と書き残している。
・ハンターは、当時良くわかっていなかったリンパ管の役割を調べるため、生きた犬の腹を開き、腸に温めたミルクを注いだ。乳糜管は白くなったが、静脈は色が変わらなかった。そのため、リンパ管のみが脂肪と体液を吸収するという説が証明された。
・ハンターに師事したウィリアム・シッペンはハンターの手法を取り入れ、同じくハンターの教え子だったジョン・モーガンとアメリカ初の医学校を創設した。その医学校はのちにフィラデルフィア大学となった。彼らは、墓地から死体を盗んでくる手法まで取り入れ、そのせいで学校が民衆に襲撃されたこともあった。
・ハンターは軍医時代に、傷口をいじり回すより放置するほうが予後が良いことに気づいた。同じ時期に銃弾の摘出手術を受けなかった症例 5人全員が治癒したのを見たことが、その後できるだけ戦場で手術を行わないことの根拠となった。
・ハンターは色々と移植手術を試した。例えば、歯牙を移植したり、雄鶏のけづめを雌鶏のとさかに移植したり、雄鶏の睾丸を雌鶏の腹に移植した。歯牙移植は数年しか持たず、梅毒の原因にもなった。
・ハンターは淋菌と梅毒が同じ原因であるこという仮説を立て、淋病患者の膿をつけたメスで被検者のペニスを傷つけ、うつった淋病が梅毒に進行することを証明した。この時の被検者はハンターだったと言われている。しかし、用いた膿が実際には梅毒を合併した淋病患者のものだったらしく、現在では実験失敗だったことがわかっている。1838年、フィリップ・リコールは、何も知らない 2500人の患者に接種実験をして、淋病と梅毒が別の病原体であることを明らかにした。
・当時性病治療には水銀治療が行なわれていたが、淋病は自然治癒するため効果を疑問視し、ハンターはパンをプラセボとして与えた。それでも効果があったので、淋病に対して水銀は不要と証明された。
・ハンターは自著で、マスターベーションにお墨付きを与えた。また、性生活が上手くできない男性に対して、6日間何もせずに女性と並んで寝るように指示したところ、7日目には精力を取り戻し、有り余る欲望をもってベッドに飛び込んだ。
・ハンターは、カイコで人工授精の実験をした後、ヒトにも応用しようとした。尿道下裂のために不妊で悩んでいた男性の精液を注射器に集め、妻のヴァギナに注入したところ、すぐに妊娠した。この症例は史上初の人工授精とされる。
・後に種痘接種で有名になるエドワード・ジェンナーは、ハンターの家での住み込み弟子第一号となった。ハンターとジェンナーの親交は、生涯続いた。ハンターはジェンナーの最初の子供の名付け親になっている。
・ハンターの妻アンは、作詩家であり、教養人だった。作曲家のヨーゼフ・ハイドンと交流があった。
・ハンターは癌については積極的な手術を勧めた。検死解剖の経験から、癌をわずかでも残すのは全部残すのと変わらないと知っており、完全に切除できたかを慎重に調べなくてはいけないと言っていた。また、自分の手術ミスに関しては失敗をおおっぴらに認めた。「あの穿孔術で患者を殺したのは私だ」とか「あの手術で私は馬鹿なことをした」と。医療ミスは避けようがなく、失敗を隠すより失敗から学ぶべきだという持論だった。
・ハンターは、内科の三大治療「下剤・嘔吐剤・瀉血」の効果を疑っていた。瀉血は必要な場合以外避けるべきだと常々言っていた。しかし、将来自分が狭心症で倒れた時は、これらの治療法を試し、意味がないことを身を持って知った。
・ハンターが解剖した狭心症患者の検死所見は、1772年のウィリアム・ヘバーデンの論文に添付された。ヘバーデンは狭心症について世界で初めて正確な解説を書いた人物として知られる。
・哲学者デイヴィッド・ヒュームは、原因不明の腹痛に悩まされていた。ハンターの義父がヒュームのいとこだったので、ハンターはヒュームの診察をして、肝臓癌であることを診断した。
・ハンターは溺水患者の蘇生に興味があった。当時の治療は瀉血や浣腸や、タバコの煙を吹きかけることだった。ハンターは被害者の肺に空気を入れることが大事だと考えた。そして、被害者の肺をふくらませるために鼻から刺激性のガスを入れ、ベッドの中で体をゆっくりあたため、精油で体をこすることを提案した。これらをすべて試しても生き返らない場合には、電気刺激を与えることを提案した。
・ハンターは、3歳の女児が二階の窓から転落したとき、電気ショックを胸に与えた後生き返ったことを書き残した。
・当時、奇形に生まれた人々への救済処置はなく、自らを見世物として人前に晒すことが収入源だった。
・ハンターは、変異体を生物進化の証であると考えていた。「あらゆる種のあらゆる器官は、もとより奇形の特質を有する」と書き残している。
・ハンターの新居は、表通りに面した洒落た建物と、別の通りに面した地味な建物がつながったものだった。ハンターの外科医、解剖学者、教師、研究者の表の顔と、死体泥棒とつながった裏の顔が、「ジキル博士とハイド氏」が書かれるときのヒントとなった。ジキル博士の家はジョン・ハンターの家がモデルだとされている。
・ベンジャミン・フランクリンが膀胱結石で悩んでいた時に、ハンターに助言を求めた。ハンターは高齢での手術を避けることを勧めた。
・ある患者がハンターに手術を依頼したとき、ハンターは 20ギニー/件の相場と答えた。その患者家族が金を工面するために次回の来院を 2ヶ月遅らせたことを知ったハンターは 19ギニーを返し、「1ギニーだけ頂戴します。これだけなら、自分の思慮のなさに心を痛めずにすみますから」と答えた。
・ハンターの弟子には、パーキンソン病を報告したジェームス・パーキンソンがいた。パーキンソンが書き残したノートは、ハンターの講義を知る貴重な資料となっている。
・1783年に、ハンターと友人ジョージ・フォーダイスは医学外科学交流会を設立した。そして二週間毎にオールド・スローターズというコーヒーハウスに集まり、内科と外科からそれぞれ症例提示し、垣根を越えて議論を深めた。
・経済学者アダム・スミスはその技術に感銘を受け、「国富論」を一部ハンターに献呈した。スミスはハンターに痔の手術を受けた。
・ハンターは、ダーウィンが「種の起源」を出版する 70年前に、共通の祖先からの生物の進化を書き残していた。それは「種の起源」から 2年後に再発見され、「博物学、解剖学、生理学、心理学、地質学にかんする小論と観察」として出版された。
・1793年10月16日にハンターが死んだ後、「自分が死んだら検死するように」という遺言通り解剖された。診断は、彼の生前診断どおり冠動脈疾患だった。ハンターは心臓とアキレス腱 (1766年に切断し自然治癒で治した) を保存するように言い遺していたが、義弟ホームはそれを守らなかった。
・義弟ホームは、ハンターの死後ハンターの業績を横取りして発表し、ハンターの残した書類を証拠隠滅に焼却した。
・ハンターの博物館-ハンテリアン博物館-は、その後フランスのルイ・ナポレオンやチャールズ・ダーウィンなどが訪れている。
・1859年1月、ハンターの遺骨が収められた納骨堂が整理されるという記事をみつけたフランシス・バックランドは、3000以上の棺を 7日間かけて探しまわり、残された棺あと 2個というところでハンターの棺を見つけた。ハンターは 3月28日に改葬された。