アラブ飲酒詩選
「アラブ飲酒詩選 (アブー・ヌワース著、塙治夫編訳、岩波文庫)」を読み終えました。以前、オマル・ハイヤームの詩集「ルバイヤート」のことを書きましたが、アブー・ヌワースはオマル・ハイヤームと同じく中東の詩人で、酒をテーマにした詩を多く残しました。
アブー・ヌワースは、イラク国境に近いイランに生まれ、8~9世紀頃に活躍しました。イスラム教は飲酒を禁じていましたが、それにも関わらず彼は堂々と飲酒についての詩を詠みました。そればかりでなく、同性愛を告白したり (※例えば “小屋” という詩には「私は彼の腰あたりで望みを果たした」という表現があります)、断食を揶揄したりもしています。”若さ” という詩では、「私は亭主からその妻を寝とった」という背徳的な出来事が詠まれています。彼はイスラム教的道徳から解放された詩を多く書いた一方で、晩年はアッラーに罪の許しを乞う詩を残しました。
彼の詩を一つ引用します。快楽をとことんまで追い求め、奔放であった彼の性格が良く表現されています。
秘密を注がないでくれ
私に酒を注いでくれないか、そしてそれは酒だと言ってくれ。
私に秘密を注がないでくれ、はっきり言うことができるなら。
人生は酔ってまた酔うだけのこと。
酔いが長ければ、憂き世は短くなるだろう。
私が醒めているのを見られるぐらいつらいことはなく、
私が酔いにふらついていることぐらい結構なものはない。
好きな人の名は打ち明けよ、あだ名で呼ぶのはよしてくれ。
快楽だってつまらない、それを隠してするならば。
悪事も淫楽なしではつまらなく、
淫楽も背教を伴わなければつまらない。
私の友は皆悪漢で、顔は新月のように輝き、
きらめく星のような仲間連れ。
私は寝入っている酒家の女将を起こした。
双子座は既に消え、鷲座が昇っていた。
彼女は「戸を叩くのは誰?」と尋ねた。我々は「ならず者達さ、
酒器が軽くなったので、酒が欲しい連中さ」と答えた。
「あんたとも寝なけりゃね」と続けると、「それとも身代わりに、
色白で、あだっぽい目の美少年はいかが」と応じた。
我々は言った。「是非連れてきておくれ、
俺達のような者は辛抱強くないのだから」
連れてこられたのは十五夜の満月か、
妖術を使っているように見えるが、妖術者ではない。
我々は一人、また一人と彼に近よった。
断食して食物から遠ざかっていた者のように。
我々は一夜を過ごした。アッラーから見れば、我々は極悪人。
我々がひきずっているのは堕落であって、誇りではない。
なお、本書の解説を読むと、当時のイスラムの歴史を理解するのに役立ちます。まず、661年にウマイヤ朝が創始されました。ウマイヤ朝はアラブ人優位の統治を行い、非アラブ人はイスラムに改宗してもマワーリー (被保護民) としてアラブ人よりも下位に扱われていました。ウマイヤ朝の下で発達した文化もアラブ的、部族的伝統を残したものでした。しかし、750年にウマイヤ朝が倒され、アッバース朝が創設されました。アッバース朝はイラクを中心に、西は北アフリカから東は中央アジアに至る広大な地域をモンゴル軍に滅ぼされるまでの 500年間支配しました。アッバース朝はペルシャ人の力を借りてウマイヤ朝を倒した経緯があるだけに、ペルシャ人を中心に多くの才能ある非アラブ人が国家の要職に登用され、文化に大きな影響を与えました。そして文化が爛熟し、生活が奢侈になると、道徳の退廃がみられます。飲酒の習慣のある異民族との接触が増えるにつれ、イスラムの下では飲酒が禁止されているにも関わらず酒は半ば公然と飲まれました。時にはカリフ (君主) ですら飲酒をし、イスラム教ハナフィー派では一部のアルコール飲料を合法としていました。こういう時代に活躍したのがアブー・ヌワースでした。
ちなみに、アッバース朝の後半はカリフの力が弱まり、ペルシャ系のブワイフ朝、トルコ系のセルジュク朝などが実権を握るようになります。詩集「ルバイヤード」で知られるオマル・ハイヤームは、11~12世紀にセルジュク朝の時代に活躍しました。同じく酒の詩を詠んだ李白が中国で活躍したのは 8世紀のことです。