痴呆…認知症…言葉狩り?
「痴呆」という用語が「認知症」に変わり、いまだにとまどいがあります。「認知症」という用語について、興味深い論文を読みましたので紹介します。
岩田誠. 認知症をどう診るか? 認知症診療の実際 誌上ディベート 認知症への呼称変更の功罪 間違った用語は受け入れ難い. Cognition and Dementia 5: 340-343, 2006
論文では、まず、「新しい用語による記載」で、従来の患者を描写しています。
今朝、私が外来診察した患者の病態は以下のとおりであった。全言語症 2例、記憶症 3例、相貌認知症 1例、同時認知症 1例、観念運動行為症 1例、コプロラリー、あるいは麗言症と呼ばれる特異な発語を伴うチック症の小児 1例、そして認知症 1例である。
上記の文章を読むと、非常に違和感を覚えます。全失語が全言語症となり、卑猥な言葉を繰り返す汚言症は麗言症 (!) と用語が置き換えられています。初めて読んだ方には、意味がなかなか通じないように思います。
次いで、「『症』の意味」について次のように述べています。まずは、「認知症」に代表される誤った使用法が一般化されれば、如何に馬鹿げた命名が成立するかの提示です。
上記の記載を読まれて奇異な感じを抱かない人はいないであろう。認知症という用語には、ここで示したような日本語としての違和感が付きまとわっている。科学用語というものには言葉としての体系がなくてはならない。認知症という用語には、日本語の基本的用法を無視した乱暴さがある。
その証拠に、もし認知症という用語に使用された原則を他の用語にも当てはめるなら、上に記したような奇妙な医学用語が出来上がることになるのである。もし、この用語法を神経疾患以外にまで拡大使用したらどうなることだろう。不妊症は妊娠症に、脊椎すべり症は脊椎固定症に、便秘症は排便症に、無汗症は発汗症にならねばならない。日本語は日本の文化の基盤である。認知症なる用語法は、日本文化の自己否定につながるのではないかと思い、私は憂いを抱くのである。
つまり、痴呆を認知症と呼ぶというのは、不妊症を妊娠症と呼ぶのと同じようなものなのです。「え?」と思うかもしれませんが、「症」という言葉の元々の意味を知ると、その理由がわかります。
では、「症」という言葉の意味、何故「認知症」での「症」の使い方が誤っているのか、それを見ていきましょう。
痴呆に代わって認知症という用語が推奨されるに至ったのは、痴呆という用語が差別的であるという理由が大きいという。ほぼ同じ理由で用語が変わった例としては、統合失調症やハンセン病がある。これらの用語には、日本語としてなんら違和感もないがゆえに、私を含め世の中の大部分の人は瞬く間にこれらの用語を受け入れ、医学教科書の用語もほとんど抵抗無く変更されている。
しかし、ここに大きな矛盾がある。統合失調症という用語と認知症という用語を比べてみよう。前者の日本語における「症」は、精神機能の統合に関して失調という状態が存在するという意味で使用されているのに対し、後者の「症」は認知能力が障害されているという意味で使われている。すなわち、同じ「症」の文字が、全く正反対の意味に使用されているのである。
「症」の使用法には、もう1つのものがある。心筋症、腎症、網膜症、脳症、筋症といった用語法であるが、これらは ‘-pathy’ あるいは ‘pathia’ に対応する日本語であり、臓器の機能不全を意味する用法である。しかしこれらの場合の「症」は、すべて臓器という器質的な実体の接尾語として使われており、現象の後に続く「症」は、常に「~の状態」という意味であって、機能不全に対しては使われない。感染症、敗血症、高血圧症、高脂血症、過食症、拒食症、虚言症、多動症、不眠症、筋萎縮症等々、例を挙げればきりがない。一見例外のように思われるかもしれない神経症 (neurosis) という用語にしても、これは神経という臓器ないしは神経機能が障害されているという意味での用語ではなく、神経質 (neurotic) であるという状態が存在するという意味であるから、やはり「症」の使用原則には矛盾していない。
「症」という語に対する日本語の用法がこれほど確立しているのにもかかわらず、日本語の慣用という文化の伝統を無視して、認知症というとんでもない日本語の使用を推奨していくというのは、我が国の文化の伝統や愛国心を大切にと叫ぶ主張とは、完全に矛盾している。
「症」という用語には元々「~の状態である」という用法が一般的にあったのに、「~が障害されている」という正反対の意味を持たせたのが混乱の始まりのようです。それが一般化すれば、由々しき事態です。
上記の考察をみると、著者の日本語に対する意識の高さを感じますし、「認知症」という用語の誤りが論理的に説明されていると思います。
英語での用法では、痴呆は dementiaと表記されます。それとは別に、認知障害 (認知の障害) は cognitive disorderや cognitive disturbanceと表記されます。dementiaと cognitive disturbanceは全くの同義ではありません。「認知症」という用語は、これらの区別をもあやふやにしてしまうのではないでしょうか?
著者は、「そのような漢字による造語慣習上の誤用をおかした間違った用語を広めるくらいならば、『慢性脳機能不全 (chronic brain failure, chronic cerebral insufficiency)』という用語の方がよほど当を得ているのではないかと思うのである」と述べています。
続いて、著者の差別に対する考え方が示されます。「差別と差別用語」についての検討です。ハンセン病 (旧来らい病と呼ばれていた) の例には、はっとさせられます。
用語に関するもう1つの問題は、用語というものが差別を作り出すのではないということである。精神分裂病に代わって統合失調症という診断名が使用されるようになってから、果たして患者に対する偏見が本当になくなったのだろうか。熊本のホテルが宿泊を拒否したのは、らい患者に対してではなく、ハンセン病患者に対してのことであったことは、人々の記憶に新しいことではなかっただろうか。差別用語といわれる言葉を新しい言葉に変えても、古い言葉に代わってその新しい言葉が差別の対象者に対して適用されただけではないのだろうか。為政者たちは、用語が差別を生んでいると、本当にそう思っているのだろうか。私たちからみると、特定の病気に苦しむ病者を差別的に扱う人々ほど、その病気を表す用語を差別用語であると、声高に主張する傾向があるように感じられる。
特定の用語によって差別されてきた人々がいることは事実であるし、そのような社会的に不当な扱いを強いられてきた人たちにとって、用語というものが差別の象徴となっていることは、私もよく理解しているつもりである。その意味では、その用語で指差される人々が、差別的な意味合いを含んでいると感じられるような用語を変更することに対しては、私は喜んで賛意を表したい。そのような用語が使用されることによって差別されてきた人々への思いやりという意味で、その行為は正しい。しかし最も重要なのは差別という社会的な態度をなくすことであり、用語を変えることはそのための手段の1つでしかなく、用語を変えただけで事足れりというのでは、差別はなくなりはしない。
(中略)
ことを、認知症の問題に戻そう。もし「痴呆」という用語に差別感を抱く者があるとすれば、それはその用語が差別的なのでなく、そのような状態にある人に対しての差別感があるからなのだと思う。語源を辿れば、「痴」も「呆」も芳しい意味を持つ用語ではないことは確かであるが、「痴呆」という用語が日常的に用いられてきた時点において、一般社会においていったいどれだけの人々が、これらの文字の意味を本当に知っていて差別感を抱いていたのだろうか。「痴呆」という用語に差別的な意味を与えたのは、文字そのものではなく、そのような用語の対象となる人々の状態に対する差別感であったのではないだろうか。もしそうであったとするならば、用語を変えてみたところで、何年か経てば、またその新しい用語が差別用語と化していくであろう。
さて、岩田誠氏の新しい論文のタイトルは「脳と忘却-アルツハイマー型デメンチアを中心として-」 (Brain Medical 19: 133-137, 2007) でした。
尚、この記事について、私には差別を助長する意図は全くないことを記しておきます。