アルツハイマー

By , 2015年5月1日 10:25 PM

アルツハイマー その生涯とアルツハイマー病発見の奇跡 (コンラート・マウアー/ウルリケ・マウアー共著, 新井公人監訳, 喜多内・オルブリッヒ ゆみ/ 羽田・クノーブラオホ 眞澄訳)」を読み終えました。

この本は、東京時代の医局の学問仲間有志が私の送別会をしてくれたとき、先輩がプレゼントしてくださいました。背表紙には、その送別会の参加者全員が寄せ書きをしてくれて、「先生には色々と教えて頂きました。下ネタも含め、勉強になりました」など、心温まるコメントがたくさんありました。

思えば、神経内科医の多くは外来ではしょっちゅうアルツハイマー病の診断を下しているのに、この疾患の歴史も、そしてアルツハイマーのこともほとんど知りません。ちゃんと知っておく必要があるという、先輩からのメッセージなのでしょう。バタバタしていて、頂いて 1ヶ月ほど経ちましたが、やっとこうして内容を纏める時間が取れました。アルツハイマーの人脈の広さ、研究範囲の広さ (アルツハイマー病で知られていますが、神経梅毒の研究で素晴らしい仕事を残しています) など、初めて知ることが多くて色々と新鮮でした。本書から抜粋して、彼の生涯を簡単に纏めます。

1864年6月14日、アロイス・アルツハイマーはエドゥアルド・アルツハイマーとその妻テレージアの次男として生を受けました。生家はマルクトブライトのヴュルツブルク通り 273番地でした。10歳の時、アルツハイマーは教育上の都合でアシャッフェンブルクに引越しました。1882年、アルツハイマーの高等学校卒業試験の一年前に、母が 42歳で亡くなりました。アルツハイマーはコッホに憧れ、高等学校卒業後の 1883~1884年、ベルリンに旅立ち、フリードリッヒ・ヴィルヘルム大学の職員・学生として登録されました。その際に、ゴッドフリード・フォン・ワルダイエル教授の講義と解剖実習に出席しました。1884年夏からはヴュルツブルク大学で学びました。1886年10月にテュービンゲンのエーベルハルト・カール大学に移りましたが、1887年に再びヴュルツブルク大学に戻り、1888年、医師国家試験に「最優秀」の成績で合格しました。

「アッフェンシュタイン精神病者の城」とも呼ばれたフランクフルト市立精神病・てんかん病院 (フランクフルト精神病院)  の初代院長は、絵本作家としても知られているハインリッヒ・ホフマンでした。ホフマンが 79歳で病院を退いた後、エミール・シオリが就任しました。シオリは 254人の患者を一人で抱え込むほど多忙でした。人手不足ということもあり、アルツハイマーの願書が届いたその日に、シオリは電報で採用通知を送り返しました。アルツハイマーは 1888年12月19日に助手として採用されました。そしてまもなく、1889年3月18日に、フランツ・ニッスルが主任医師として赴任してきました。ニッスルはニッスル小体、ニッスル染色などに名を残しています。ニッスルとアルツハイマーは仲が良い仕事仲間でした。

アルツハイマーは 1894年にヴィルヘルム・エルプ (Erb点などで有名) からの依頼で、ダイヤモンド卸売業者オットー・ガイゼンハイマーの診察をすることになりました。ところが、ガイゼンハイマーは、アルツハイマーがドイツに連れて帰ろうとする途中で息を引き取りました。アルツハイマーが未亡人のセシリー・シモネッテ・ナタリエ・ガイゼンハイマーの世話をしているうちに、二人は結婚することになり、アルツハイマーの親友であるフランツ・ニッスルが立会人の一人となりました。ニッスルはアルツハイマー夫妻の娘ゲルトルーデの洗礼立会人でもあります。しかし、1901年、セシリーは扁桃炎から関節や腎臓の障害をきたし、死亡しました。フリッツ・クリムシュが、後にアルツハイマーも眠ることにもなるフランクフルト中央墓地の墓を制作しました。クリムシュはウィルヒョウの記念碑を委託されたときも、セシリーの墓石とよく似たものを制作したそうです。奇しくもアルツハイマーが、最初のアルツハイマー病患者「アウグスト・D」と出会ったのも、この 1901年でした。

アルツハイマーは、1901年にハイデルベルクで員外教授になっていたニッスルの誘いもあり、1903年3月にフランクフルト・アム・マイン市立精神病院の第二医師を辞職。ハイデルベルクのクレペリンの元に移りました。そしてクレペリンがミュンヘンから招聘を受けたので、同年10月にミュンヘンに向かいました。ミュンヘンでは、三人の子どもと、妻の代わりに子供の面倒を見ていた妹のエリザベート「マーヤ」と同居しました。マーヤは、1909年7月1日ツェッペリンの飛行船の乗員のひとりとして、約 12時間の飛行に参加したそうです。アルツハイマーがミュンヘンで教授資格論文に取り組んでいた時代、精神病院に入院する患者の約 3分の 1が梅毒による進行麻痺でした。

1906年4月9日、フランクフルト精神病院の研修医がアルツハイマーに電話をかけ「アウグステ・Dが昨日亡くなった」ことを伝えました。アルツハイマーはかつての上司シオリにカルテ、脳を提供して欲しいと頼み、1906年11年テュービンゲンで開催される第 37回精神科医学会でこの症例を発表することにしました。アルツハイマー、ペルシーニ、ボンフィグリオによる分析の結果、大脳皮質全体に斑状の独特な物質代謝産物の沈着が認められ、血管の増生が確認されました。アルツハイマーはこれを単に plaques “斑” と記載しました (“訳者註:アルツハイマー病の病理学的特徴の一つである老人斑を指している。老人斑は、ブロックとマリネスコにより一八九二年に記載された。本書に見られるようにアルツハイマー自身は単に Plaquesと記載しているので「斑」と記す。また、アルツハイマーはレンドリッヒが一八九八年に老人斑という語を最初に記載したと述べている”)。この学会には、ビンスワンガー病に名を残したビンスワンガーや、クルシュマン―シュタイネルト病 (筋強直性筋ジストロフィー) に名を残したクルシュマン、デーデルライン桿菌に名を残したデーデルライン、その他メルツバッハ―、ユング、ガウプ、ブムケなどが参加していました。アルツハイマーの発表後、質問は一つもなく、会議録には「短い研究報告には適していない」と記されました。しかし、講演の全文は 1907年、「精神医学及び司法精神医学」に “大脳皮質の特異な疾患について” というタイトルで発表されました。アルツハイマーは、1907年に亡くなった B・Aや Sch.L、1908年に亡くなった R・Mにも斑を見つけました。

1912年、アルツハイマーはブレスラウのシレジア・フリードリッヒ・ヴィルヘルム大学の精神科正教授として招かれました。1912年8月にアルツハイマーはミュンヘン中央駅からブレスラウに旅立ちましたが、旅路で病に倒れました。クレペリンは「新しい勤務地に向かう途中、腎炎及び関節炎を伴った感染性扁桃炎にかかり、それ以降立ち直ることはなかった」と述べています。アルツハイマーが赴任した病院の初代院長はハインリッヒ・ノイマン、二代目院長はカール・ウェルニッケ、三代目院長はカール・ボンヘッファーで、アルツハイマーが四代目でした。アルツハイマーの同僚の一人はオットフリード・フェルスターであり、晩年レーニンを治療するためにロシアに派遣され、その主治医となりました。また別の同僚は、後にアルツハイマーの娘婿となるシュテルツでした。シュテルツはノンネ・マリーの下で助手を務めたことがありましたが、ノンネはノンネ―マリー病 (現在のマシャド・ジョセフ病) に名前を残した神経科医でした。

1915年12月19日、アルツハイマーは家族に囲まれて 51歳の生涯を閉じました。

本書は、人物の写真、病理標本のスケッチ、アルツハイマーが使用していた道具の写真など、資料が豊富ですし、文章が読みやすいです。帯に「伝記」と書かれている通り、医学的知識のあまりない一般人でも普通に読むことができます。アルツハイマーに興味を持った方は、是非読んでみて頂きたいと思います。

以下、備忘録として覚えておきたい部分を抜粋しておきます。

・アウグステ・Dや他の多くの不安定な患者の治療に際して、睡眠薬は、しかし、非常に重要であった。医師は患者に二~三グラムの抱水クロラールを与える。それはある程度意識の混濁をもたらすが、より持続的で静かな睡眠を約束するのである。抱水クロラールを受け付けなくなると、精神病院ではパラアルデヒドを用いる (※当時の医療)。 (43ページ)

・エドゥアルド (※アルツハイマーの父) は一年間喪に服した後、亡くなった妻の妹と結婚した。(51ページ)

・この生家 (※マルクトブライトにあるアルツハイマーの生家) は、アメリカの製薬会社イーライリリー社が購入した後、本書の著者ウルリケ・マウラーの指導の下に改修された。一九九五年一二月一九日、アロイス・アルツハイマーの没後八〇年を記念して一般公開され、現在、記念博物館として、また、医学セミナーなどのセンターとして利用されている。 (51-52ページ)

・アルツハイマーがベルリンにやってくる直前の一八八二年に、コッホは人型結核菌を発見したのである。結核は今日、西側諸国ではあまり見られなくなったが、この時代には重大な病気の一つであり、人々を脅かした。一八八〇年当時、ドイツでは死者の七人に一人は結核で亡くなり、一五歳から四〇歳までに限ると二人に一人がこの病気に罹患して死亡した。 (62ページ)

・(ヴュルツブルク大学時代) アルツハイマーにとって重要だったのは、彼に顕微鏡の魅力的な世界を紹介した組織学者、アルベルト・フォン・ケリカー教授との繋がりを作ることであった。ケリカー研究所には後日ノーベル賞を受賞したアルフォンソ・コルチとフランツ・フォン・ライディッヒ等の有名な研究者が働いていた。彼らは器官と細胞組織に自らの名前を付与した。すなわち、内耳の蝸牛にある感覚器官であるコルチ器と、男性ホルモンを分泌する睾丸にあるライディッヒ間質細胞である。 (66-67ページ)

・彼 (※アルツハイマー) は好きな自然観額を断念することができなかったため、フリードリッヒ・コールラウシュのもとで物理を聴講した。彼 (※コールラウシュ) の名は電気工学のパイオニアとして有名で、コールラウシュの法則と呼ばれる電解質の当量伝導率を定める法則を発見した。 (67ページ)

・(アルツハイマーは) ヴュルツブルク時代には、賭けに負けて冬のマイン川を泳ぎきったことで有名であったが、テュービンゲンでは、夜中に警察署の前でどんちゃん騒ぎをしたため三マルクの罰金を科せられ、大学の会計に支払った。 (69ページ)

・標本作製に当たり、当時フランクフルトに病理学の分野で二人の一流の研究者がいたことはアルツハイマーにとって大きな助けになった。一人はカール・ワイゲルト、もう一人はルードヴィッヒ・エディンガーである。ワイゲルトは一八八五年四月一日よりフランクフルトのゼンケンベルク病理学研究所の所長であった。最新の優れた組織病理学の研究方法を学びたい者は、ワイゲルトがいる病理学研究所を訪れなければならなかった。そこでは最良の「割断と染色」法を学ぶことができた。アニリン核染色法をはじめ、多くの染色方法の発見は彼に負うこと大である。(102ページ)

・一九世紀最後の年のフランクフルト精神病・てんかん病院の発展については次のように報告されている。「ここ数年は院長を除いて四人の医師が常勤していたが、医師一人で八五名の入院患者と二四〇名の外来患者を診察していたことになる」 (130ページ)

・睡眠薬や鎮静剤が必要な場合、トリオナール、パラアルデヒド、クロラールが使用された。てんかん患者には臭素塩、また、アヘンと臭素を混合したフレクシッヒ療法がよく用いられ、うつ病にはアヘンとヒオスチンが頻繁に使われた。ヒオスチンはアヘンアルカロイドの一種で、通常皮下に注射され、特に高度の不穏患者や観念奔逸患者に用いられた。 (144ページ)

・(ニッスルの元上司で、国王ルードヴィッヒ二世とともに湖で溺死した) フォン・グッデンの解剖学質教室では、ニッスルと共に S・J・M・ガンザ―も働いていた。いわゆる仮性痴呆はガンザーの名に因んで、後日ガンザ―症候群と名付けられた。患者は、耐えられない状況に陥ったとき、窮地に陥って間の抜けた話をし、見当外れの態度をとり、無知と見せかけ、まるで精神病患者のような反応を示す。フォン・グッデンの研究室では、エミール・クレペリンも一八八四年から一八八五年まで勤務していた。 (161ページ)

・病院内でも、アルツハイマーはどんなに仕事に集中していても、冗談を受け止め、洗練されたユーモアのセンスを持っていた。孫の一人は次のように話している。「それは、ミュンヘンのヌスバウム通りにある病院の謝肉祭でのことでした。突然一人の貧しい行商人が現れました。彼はおもちゃを一杯入れた箱を首から掛けて、中の商品を売ろうとしました。しかし、そこは商売禁止で、病院の従業員は怒って営業禁止を言い渡し、アルツハイマー教授を呼んでくると言ってほどしました。ところが、『その必要はない』と行商人がいたずらっぽく笑うのです。そして仮装を脱ぎ始めると、皆は大笑いせずにはいられませんでした。アルツハイマー教授自身が行商人だったのです。おもちゃは小児患者に配られました。プレゼントすることは彼にとっていつも大きな喜びだったのです」 (192ページ)

・(ミュンヘン時代の) アルツハイマーの生徒の中には、後にその分野で有名になった学者が多くいる。スペイン人の N・アチュカロ、イタリア人のフランシスコ・ボンフィグリオ、そして、アメリカ人のルイズ・カサマジョアなどもその中に入っている。ボンフィグリオは一九〇八年に初老期痴呆の症例を発表しクレペリンの興味を引いた。イタリア人のウーゴ・ツェルレッティは一九三八年 L・ビニとともに、痙攣を誘発する電気ショックで初めて電撃療法の時代を開拓して世界的に有名になった。一九三六年、彼はローマ大学精神神経科教授となった。他にも世界的に有名になった研究者にハンス―ゲルハルト・クロイツェルトとアルフォンス・ヤコブがいる。後にこの二人の名前を取ってクロイツフェルト―ヤコブ病と名付けられた病気は、プリオン病の一種である。この病気はチンパンジーに伝染し、潜伏期間一年を経て症状が現れる。ダニエル・ガイジュセックはこの発見で、一九七六年にノーベル医学・生理学賞を受賞した。コンスタンティン・フォン・エコノモ・フォン・サン・セルフ男爵の名は、第一次世界大戦後に広がった流行性脳炎に付与された。その後、彼は中脳に “睡眠調節中枢” を発見している。F・ロトマーはスイス出身で化学実験室を指導した。テュービンゲンとブエノス・アイレス研究したルードヴィッヒ・メルツバッハ―はペリツェウス―メルツバッハ―病を発見した。F・H・レビーの名から、パーキンソン病で重要な役割を果たす “レビー小体” の名が付けられた。特に強調しなくてはならない人物はガエタノ・ペルシーニである。彼はアルツハイマーと共同研究をし、共著も出版した。有名なアウグステ・Dの症例は、一九〇九年ペルシーニによって大変詳細に再発表された。彼は “アルツハイマー” の名称が全世界に広まるのに大きな貢献をした。(中略) 偶然にも、彼らは死亡日もほぼ同じという共通点がある。ペルシーにはアルツハイマーが亡くなる一週間前、第一次世界大戦で負傷した兵を助けようとして自分も致命傷を負い、一九一五年十二月八日に三六歳の若さで亡くなった。 (194-196ページ)

・(※クレペリンは自らが主催した生涯教育コースについて) 「コースの中心は私が企画した臨床講義であったが、その他、アルツハイマーが精神病の病理解剖学について、テュービンゲンのブロードマンは大脳皮質の局所解剖について、ベルリンのリープマンとチューリッヒのモナコフは交互に局在問題を、リューディンは遺伝と変性の学説を、プラウトは血清学、アラースは代謝検査を解説した。その間、私自身は臨床実験精神医学の概略を述べた。このコースの参加者は四〇~五〇任に達し、大半は外国人の参加者で占められていた。彼らはこのコースに大変満足した。」 (202ページ)

・アルツハイマーは経験豊かな神経科医であった。穿刺針を用いて脳脊髄液を採取する腰椎穿刺の手技に習熟しており、「形態上の相違を見分けるために、脳脊髄液中の細胞を満足のいくように固定する」ことの難しさを知っていた。彼は一九〇七年、神経精神医学中央雑誌に「脳脊髄液中の細胞成分固定のための方法論」として、研究成果を発表した。彼が存在を予想していた形質細胞がハッキリと確認された。(209ページ)

・マドリッド出身の組織病理学者で、当時ワシントンの国立精神病院の研究室で客員医師として働いていたゴンザロ・R・ラフォラ博士は、米国人のアルツハイマー病初報告を記載している。 (310ページ)

・一年後 (※1926年) にグリュンタールは「老年痴呆に関する臨床病理学的比較研究」と題する別の発表を行った。七〇歳以下を対象に入れなかったが、それは真のアルツハイマー病患者が含まれないということである (※アルツハイマー自身は、アルツハイマー病を若年性痴呆として報告していたため)。またもやグリュンタールは殆ど予言的な結論に達している。「アルツハイマー病に対する鑑別診断に関しては組織学的な相違はほとんどないと言える。臨床的にも老年痴呆のある例では、年齢的な違いを除いて、軽度および中等度のアルツハイマー病と全く区別することができない。しかし、アルツハイマー病では言語障害―特に喚語困難―がしばしば初期症状となるが、老年痴呆では重度の場合でも稀にしか出現しないという本質的な相違はあるように思える」 (315ページ)

・「アルツハイマー病」の病名が世界的に容認された一九八〇年半ばになっても、アウグステ・Dの診断を疑問視する声があった。その多くは、動脈硬化症か、または稀な神経疾患ではないかと推測するものであった。しかし一九九八年四月のフルクフルター・アルゲマイネ紙の学術欄の中で、アロイス・アルツハイマーの正当性が立証された。「フランクフルトで精神科医として勤務していたアロイス・アルツハイマーの当初の診断に誤りはなかった。彼が診断したアウグステ・Dは、実際にアルツハイマー型痴呆に罹患していた。マルティンスリードの研究者は、ずっと行方不明になっていた脳標本を最近偶然発見した。その標本には特徴的な神経原線維変化とアミロイド斑が見られた。血管性痴呆の徴候はなかった。」 (334ページ)

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