世界でもっとも美しい10の科学実験
「世界でもっとも美しい 10の科学実験 (ロバート・P・クリース著、青木薫訳、日経BP社)」を読み終えました。高校物理がある程度理解出来ていれば、十分に楽しめます。
本書は、「フィジックス・ワールド」という雑誌の読者から「一番美しいと思う物理学の実験」をアンケートで集め、もっとも美しいとされた 10の実験を紹介したものです。
実験の解説やその背景はもちろん興味を引くのですが、本書が一貫しているのは、「美とは何か?」「その実験は何故美しいのか?」という根元的な問いかけなのです。さまざまな切り口から美を語っているのが本書の面白さの一つです。
目次
序文 移り変わる刹那
第1章 世界を測る-エラトステネスによる地球の外周の長さの測定
Interlude なぜ科学は美しいのか
第2章 球を落とす-斜塔の伝説
Interlude 実験とデモンストレーション
第3章 アルファ実験-ガリレオと斜面
Interlude ニュートン=ベートーヴェン比較論
第4章 決定実験-ニュートンによるプリズムを使った太陽光の分析
Interlude 科学は美を破壊するか
第5章 地球の重さを量る-キャヴェンディッシュの切り詰めた実験
Interlude 科学と大衆文化の統合
第6章 光という波-ヤングの明快なアナロジー
Interlude 科学とメタファー
第7章 地球の自転を見る-フーコーの崇高な振り子
Interlude 科学と崇高
第8章 電子を見る-ミリカンの油滴実験
Interlude 科学における知覚
第9章 わかりはじめることの美しさ-ラザフォードによる原子核の発見
Interlude 科学の芸術性
第10章 唯一の謎-一個の電子の量子干渉
Interlude 次点につけた実験
終章 それでも科学は美しくありうるか?
どの実験もそれぞれ心躍らされるのですが、実験そのものよりその背景、実験を行った科学者のトレビアをここでいくつか紹介しておきます。
第 2章と第 3章はガリレオ (1564-1642年) についてです。ガリレオは音楽家の子供としてピサの町に生まれました。父親のヴィンツェンツィオはリュート奏者だったらしいのですが、ガリレオ自身も腕の良いリュート奏者だったそうです。ガリレオは 1580年の秋頃、医学を学ぶつもりでピサ大学に入学したらしいのですが、最終的に科学者としての道を選んだそうです。ガリレオが医学の分野に進んでいたらどうなっていたでしょうね?
ニュートン (1642-1727年) はガリレオが死んだ年に生まれました。ペストが流行り大変な時代だったそうです。彼の生活は「頭の回転を良くして集中力を高めるために、彼はいつもパンと少々のサック酒と水しか口にせず、しかもそれを不規則に、食べたくなったときや気力が落ちてきたときに食べるのだった」そうです。彼はケンブリッジ大学のルーカス教授職 (後年ディラックやホーキングが務める) についたとき、人気のない講義をしていました。その授業風景について本書から引用します。
しかしニュートンの講義を聴講する者は少なかった。ある同僚によれば、「講義に出向く者はごくわずかで、理解する者はもっとわずかだった。聴講者がいないことも多く、そんなとき彼はいわば壁に向かって講じるのだった」。ニュートンは文字通り、壁に向かって講義をした-第二回目の講義には出席者が一人もいなかったのだ。
また、私はキャヴェンディッシュ (1731-1810年) という科学者をあまり知らなかったのですが、彼はオームの法則を、オームより前に発見していたと聞いてびっくりしました。様々なことを自分のノートだけに留めている研究者だったのですね。
ヤング (1773-1829年) はベートーヴェン (1770-1827年) とほぼ同時代を生きた科学者でした。ヤングについては、高校物理学の実習で、光の干渉について、ニュートンリングを扱った記憶が懐かしく甦ります。とはいっても、ニュートンリングを略した「ニューリン」の言葉のインパクトの方が記憶に残っているのですが (苦笑)。ヤングも医学を学んだことがあるようで、面白いエピソードがあるので引用します。
一七七三年に生まれたヤングは、まもなく神童であることが明らかになった。二歳にして文字を読み、六歳にして聖書を全編残らず読み通し (それも二度)、ラテン語を独習しはじめた。やがて彼は十指にあまる言語を習得した。ヤングはエジプトのヒエログラフを最初に解読した人物の一人であり、ロゼッタストーンの解読にも重要な役割を果たした。
ヤングは一七九二年から一七九九年まで医学を研究したが、結局、臨床医としてはものにならなかった。その理由のひとつは、病床の患者に対するいたわりの気持ちが欠けていたためだった。この時期、ヤングは視覚、とりわけ人間の眼の構造に興味をもった-眼は驚異的に順応性の高い複雑なレンズだった。また彼は、やはり医学上の研究から音や人間の声に興味をもち、音と光は基本的に同種のものではないかと考えるようになった。音が空気中を伝わる波によって生じることは知られていたので、光もきっと波なのだろうとヤングは考えた。
続くフーコー(1819-1868年)も医学とつながりのある人でした。
フランスの科学者ジャン=ベルナール=レオン・フーコー(一八一九~一八六八年)はパリに生まれた。子どもの頃は科学的な機械仕掛けのおもちゃを作り、そういう実際的な才能を生かすために外科医になろうと医学を学びはじめた-しかし彼は、血を見たり、人が苦しむのをみたりしたくない自分に気づき、医学の勉強をやめた。
「最も美しい実験」としてアンケートでもっとも票が多かったのが、本書の第 10章で扱われた「一個の電子の量子干渉」でした。ヨーンソンが初めて電子の干渉縞を実験によって記録したのですが、その後、「一個の電子」による干渉縞が追究されます。メルリ、ポッツィ、ミッシローリの3人が成功するのですが、三人はそれを映画にしました。その映画を我々は見ることが出来ます。本書の引用文献に URLが記載されていました。
IMM-Seziole di Bolognaから、Single Electron Interferenceで実際にみることが出来ます。古典的な実験 (光の干渉) ではヴィヴァルディの音楽、電子の干渉では無調音楽を使うという凝りようです。
本書の最後は、ポアンカレの言葉で締められています。
科学者が自然を研究するのは、それが役立つからではない。科学者が自然を研究するのは、そのなかに喜びを感じるからであり、そこに喜びを感じるのは、それが美しいからである。もしも自然が美しくなかったら、それは知るに値しないだろうし、もしも自然が知るに値しなかったら、命は生きるに値しなかっただろう。
-アンリ・ポアンカレ
続いて、Interludeについて触れます。ここで私が取り上げるのは「ニュートン=ベートーヴェン比較論」です。以前、私がブログに小柴昌俊先生の著書を紹介したことがありました。そこで小柴昌俊先生の「わたしは、モーツァルトとアインシュタインをくらべたとき、モーツァルトのほうがほんとうの意味での天才だと思っている。なぜなら、たとえアインシュタインが相対性理論を思いつかなかったとしても、ほかの人が論理をたどっていって同じ真理にたどりつくことは可能だ。ところが、モーツァルトがつくったあのすばらしい曲は、彼以外のほかのだれにもつくれないではないか。」いう言葉を引用しました。それを念頭に置いて読んで欲しい話です。
物理学者のヴェルナー・ハイゼンベルクはあるパーティーの席で、友人たちのためにベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタ、作品111を演奏したのち、余韻に浸っている聴衆に向かってこう言った。「私がこの世に生まれていなかったとしても、不確定性原理は誰かが定式化したでしょう。しかしベートーヴェンがこの世に生まれていなかったなら、作品111は誰も書かなかったでしょう。」
科学史家のI・バーナード・コーエンは、アインシュタインのものとされる次の言葉を引用した。「ニュートンやライプニッツがこの世に生まれていなかったとしても世界は微積分を手に入れられたでしょうが、ベートーヴェンがいなかったら交響曲ハ短調(第五)は決して得られなかったでしょう。」
この例えは、物理学者が好む例え話のようです。この考えに対する反論もあり、例えばジャン=マルク・レヴィ=ルブロンはひとつの思考実験を行い、「アインシュタインがこの世にうまれていなかったとしたら、相対性理論はどのようになっただろうかと考えてみた。その結果得られた相対性理論は、今日ある相対性理論とは、用語も記号も概念も大きく異なるものだった。」と述べています。いろいろな考え方がありますが、科学理論も音楽と同じように独創性が問われますし、上記の科学者達は、モーツァルトやベートーヴェンといった音楽家と同様に評価されるべきでしょう。