高血圧研究の偉人達
「高血圧研究の偉人達 (荒川規矩男編集、先端医学社)」を読み終えました。
この本は、文字通り高血圧研究の先駆者たちを紹介した本です。
目次
chapter 1 Richard Bright-腎疾患が硬脈 (=今日の高血圧) を伴うことを初めて指摘した腎臓病学者
chapter 2 Robert Tigerstedt-レニン・アンジオテンシン・アルドステロン系の出発物質レニンの発見者
chapter 3 高峰譲吉-最初のホルモン (アドレナリン) 結晶化の先駆者
chapter 4 Scipione Riva-Rocci/Nicolai Sergeivich Korotkov-間接的血圧測定法の生みの親
chapter 5 Harry Goldblatt-高血圧モデル動物として腎動脈狭窄による持続性高血圧の作製に成功した病理学者
chapter 6 Eduardo Braun-Menendez-レニン・アンジオテンシン系の真の発見者
chapter 7 Irvine H. Page-アンジオテンシンの活性を発見し、高血圧学会を創始した医政家
chapter 8 Leonard T. Skeggs-自動分析器を発明し、レニン-ACE-アンジオテンシン系の全経路を解明した生化学者
chapter 9 Jerome W. Conn-原発性アルドステロン症を発見・命名した内分泌学者
chapter 10 Franz Gross-レニン・アンジオテンシン・アルドステロン系の確立に寄与した臨床薬理学の草分けの一人
chapter 11 F. Merlin Bumpus-Pageグループのアンジオテンシン研究陣の補強に加わり、最初のARBに到達した生化学者
chapter 12 George W. Pickering-本態性高血圧の原因として疫学的に環境説を確立した臨床家
chapter 13 Arthur Clifton Guyton-血行動態のコンピュータ解析から高血圧の原因や機序に迫った異色の生理学者
chapter 14 岡本耕造-本態性高血圧の研究モデル,SHRの贈り主
chapter 15 Lewis Kitchener Dahl-食塩と高血圧の関係究明に生涯を捧げた研究者
chapter 16 Harvey Williams Cushing-内分泌脳外科学の創立者
chapter 17 Grant Winder Liddle-内分泌高血圧の臨床研究先駆者
chapter 18 Walter Krempner-無塩米飯食での降圧効果を重症高血圧患者500人で初めて実証した臨床高血圧学者
chapter 19 Edward D. Freis-利尿薬の降圧作用を発見し、VA studyにも応用した臨床介入試験創始者
chapter 20 Lennart Hansson-臨床現場における幾多の疑問に各種臨床試験で解答を提供してきた介入試験の大家
最初に紹介されるのは Brightです。Brightは腎疾患に伴って左室肥大が起こることを指摘しましたが、それを発展させ研究したのは、Traubeと Gullだったそうです。Traubeは動脈圧の上昇が心拡大と心肥大を来すことを提唱しました。
chapter2では、レニンを発見した Tigerstedtが紹介されます。しかし、Tigerstedtにレニン発見に至る直接的影響を与えたのは Brown-Sequardだったそうです。Brown-Sequardは、モルモットの睾丸エキスを自分に注射して精力が回復したと発表し、内分泌物質の存在を示唆した人物です。ブラウン・セカールと発音します。ちなみに、Brown-Sequard症候群として彼は名前を遺していますが、「彼がやった仕事は、動物の脊髄の片側に切開を加えて対側の下肢を炙ると熱がらないということで、その概念をきちんと突き止めたのはデュシェンヌである」ということを聞いたことがあります。
Brown-Sequardはモルモットの精巣を自分に打ちましたが、Tigerstedtはウサギの腎臓をウサギに注射し、血圧を上昇させました。そして、活性物質は皮質に多いことを突き止めました。また、その物質が水溶性で、非透析性で、熱、アルコールで不活化されることも見いだし、レニンと名付けました。
chapter3では、高峰譲吉が取り上げられています。私は中学生の頃、学校で社会を高峰譲吉先生の孫に習っていました。授業中「この譲吉ってのは、俺のじいちゃんなんだ」と先生は言っていましたが、具体的な挿話を聞く機会がなかったのは残念に思います。高峰譲吉は牛の副腎から抽出し、結晶化した物質を「アドレナリン」と命名しました。アメリカでは「エピネフリン」と呼びますが、本来はアドレナリンと呼ぶべきであることを本書は指摘しています。
アドレナリン、ノルアドレナリンとドパミンを合わせてカテコールアミンと総称されている。アドレナリンとノルアドレナリンは、おもに欧州で用いられ、エピネフリンとノルエピネフリンはおもに米国と日本で用いられてきている。米国のエーベル(Abel)が1897年に発見・命名したエピネフリン(epinephrine)は、その精製過程が不完全なために不純物が多すぎるにもかかわらず、国際的に非・専売薬名として採用される趨勢にある。英国オックスフォード大学のAronsonは、この趨勢を見据えたうえでアドレナリンの正当性を主張しているが、わが国からもアドレナリンの正当性を支持する意見を表明すべきではなかろうか。
私が学生の頃、薬理学の授業で教授が高峰譲吉の名を出し、「日本人はアドレナリンと呼ぶべきなんだよ」と主張していたのを思い出しました。
chapter4は Kortokovについてです。我々は血圧を聴診で測定するときには、Kortokov音というのを聞いて血圧を知ります。それを発見した人物が Kortokovです。彼はモスクワ出身ですが、1900年の義和団事件の時に極東に派遣され、帰国の際に日本を経由しているそうです。また、日露戦争の際に、数名の日本兵が Kortokovの手術を受けた記録が残っているそうです。
Riva-Rocciらの平均血圧測定法を知った Cushingが、1903年に「手術室およびクリニックにおけるルーチンな血圧測定」という論文を発表しているそうですが、少なくともその数年前までは臨床的に血圧を測定するのは一般的でなかったようです。また、Kortokovによって拡張期血圧測定法が発表されたのは 1905年だったそうですが、今からたった100年くらいまえの話なのですね。この100年の間の医学の進歩は凄いと思いますが、血圧は vital signとして、現在でも臨床現場で最も重要視されています。
chapter6, 7で紹介される Braun-Menendezらと Pageらはほぼ同時に Angiotensinを発見し、Braun-Menendezらは Hypertensin、Pageらは Angiotoninと呼びました。これらの研究の多くは、Menendezらが進め、Pageらの報告は誤りが多かったことから、多くの研究者は Hypertensinと呼んでいましたが、Menendezの死後、後任者の Taquiniは紳士的立場に立ち、Angiotensinという名称に統一するように勧告したそうです。ちなみに、Angitotensin Ⅰを初めて精製単離したのが、本書の著者なのだそうです。
chapter8で紹介される Skeggsはレニン・アンジオテンシン系を生化学レベルで確立した人物ですが、多方面に才能を発揮した人物だったそうです。少し引用してみます。
Skeggsは Leonardo da Vinciにも似て天才的に万能で器用な人であった。たとえば、①アンジオテンシンの精製過程で Koffの人工腎臓を大改良して広く米国内で人工腎臓として実用に供した (そのときの弟子の Paul Bergは後に recombinant DNAの技術開発で1980年にノーベル賞を受賞した)。
②また、同じくアンジオテンシン系の生化学分析の過程で、無数の試験管の行列 (train of test tubes) を使うかわりに、血液や試薬を連続して機械的に運んで反応させ、分析する自動分析器を考案して、自宅地下室の工作室で試作を重ねた後、研究室で実用化した (その実際を筆者は見せられて度肝を抜かれるほど驚いた)。これを後に Technicon社が買収して1954年に ”Autoanalyzer” という商品名で売り出し、これが今日世界中の病院などで活躍している自動分析器の原型となっていった。
③定年退職後は死の数ヶ月前に 30フィートのモーターボートを手製で完成したばかりであった。彼は飛行機でも作りかねなかった、と周りの人々はいう。
非常に多才な人物だったことがわかります。彼によって複雑なレニン-アンジオテンシン系が同定されましたが、経路として明らかになったことで、研究が大きく進み、ACE阻害薬、アンジオテンシンⅡ受容体拮抗薬 (ARB) が生まれました。また、これらの知見の上に、本書の著者らは研究を進め、アンジオテンシンⅡ合成に ACEばかりでなく Trypsinや Kallikreinなどのバイパス経路があることを発見しています。そのほか、アンジオテンシンⅡ合成については、セリンプロテアーゼとしてキマーゼも同定され、循環器領域に新たなテーマを与えているそうです。
chapter12の Pickeringは、消化器性潰瘍、頭痛、体温調節など様々なことに興味を持っていたそうですが、Goldbatt高血圧 (腎動脈狭窄による高血圧) の慢性期に該腎を摘出しても降圧できないことから、長期の経過のうちにレニンの役割がおわり、抵抗血管の二次的な器質的変化によって高血圧が維持されることを提唱したそうです。そして、年齢とともに人の血圧が上昇していくことも同様の機序によるものとしたそうです。もし彼の考えが正しいとすれば、若いうちから血圧の薬を飲んでおいた方が、抵抗血管の二次的な器質的変化が予防できるのでしょうかね。彼に関する面白い逸話が紹介されています。
減塩は学問的に大切としながらも、実生活では必ずしも実践していかなかったらしい。死亡数週間前にパリでRobertson (第三代国際高血圧学会会長) と食事をともにしたとき、”ニンニクと塩が足りない!”と怒鳴った、という。服装にも頓着なかった。こういう彼の愛すべき性格は直接の弟子達のみならず、高血圧学者仲間でも愛嬌者にされていた。
chapter14は岡本耕造先生です。本態性高血圧の動物モデルを作りました。彼の開発した高血圧自然発症ラット (SHR) は、1996年にスペースシャトルに乗せられ、宇宙旅行をしたそうです。研究を進めるには、その疾患の動物モデルは極めて重要ですから、高血圧の分野における役割は言うまでもありません。
chapter15は、Dahlについてです。彼は、食塩摂取量と高血圧の間に正の相関があることを見いだしました。家庭でも減塩を徹底し、「食卓塩」を「毒薬 (poison)」と呼んでいたそうです。しかし、何とも言えない経緯で病気を発症しました。
1972年、Dahlが同研究所付属病院の院長に就任して間もなく、新たに購入した血清蛋白分析装置の試運転のため自分の血液検体を提供したところ、M蛋白が発見され、多発性骨髄腫に罹患したことが判明した。闘病生活に入っても、研究への意欲は衰えず、死の直前まで精力的に研究を指揮したとのことである。
chapter16はCushing (1869-1939) です。彼はHarvard大学医学部を卒業して、Massachusetts General Hospital (MGH) での外科研修を経て、1896年にJohns Hopkins大学外科レジデントとなりました。そこで外科を Halstedに学び、友人に Oslerがいたそうです。彼はヨーロッパ旅行中に、Londonで Hunters、Bernで Kocher、Liverpoolで Sherringtonに会うなど、得難い経験をしています。カナダでの弟子に、Penfieldなどがいるといいます。
chapter17はLiddleです。内科医にとって Liddle症候群は有名ですが、メトピロン試験、デキサメサゾン抑制試験が Liddleに由来することは知りませんでした。
こうして医学史に関する本を読むと、脈々と続く医学の伝統を感じます。