潜水服は蝶の夢を見る
久しぶりに本を読んで泣きました。
本のタイトルは「潜水服は蝶の夢を見る (ジャン=ドミニック・ボービー著、河野万里子訳、講談社)」です。
著者は、フランスのファッション誌「ELLE」の編集長です。彼は、「Rocked in syndrome」に罹患し、左眼と首をわずかに動かせる程度の「寝たきり」になってしまいました。「Rocked in syndrome」は脳幹部 (中脳・橋・延髄の総称) の障害で起こり、日本語では「閉じこめ症候群」と呼ばれます。脳からの運動の命令は、通常脳幹部を通って四肢に伝わるのですが、脳幹部が障害されることによって、伝わらなくなってしまうのです。従って、彼は知的機能はクリアに保たれつつも、四肢を動かすことが全くできなくなってしまいました。ただし、頭頸部への運動神経の一部がスペアされ、左眼と首をわずかに動かすことができました。
原因は、脳出血とされていますが、明らかに脳幹出血だと思います(一般的に、脳幹出血の原因は、高血圧か、血管奇形とされています。)
知能が侵されないのに、指一本動かないで人生を過ごしていくことは、想像を絶する苦しみだと思います。例えば、筋萎縮性側索硬化症も進行すると別のメカニズムで似たような症状を呈します。こうした疾患に対して、現代の医学は力が及ばないのが現状です。
私にこの本を教えてくれた方は、「彼があれほどの苦しみを抱えながら、前向きに生きていることに感動した」という内容のことをおっしゃっていましたが、著者は自分の障害を「潜水服」、自由な自分の心を「蝶」と表現し、それが本書のタイトル「潜水服は蝶の夢を見る (原題:Le Scaphandre et le Papillon)」となっています。
チェリストのミッシャ・マイスキーは、ソ連のコンクールで優勝後、逮捕され独房に入れられ、楽器に触れない日々を過ごしていた頃、「コップから失われた水ではなく、コップに残っている水を考えて生きていこう」と決心したと言われていますが、この本の著者も、失われた自分の能力に囚われず、時には涙は流しますが、残った能力「自由な心」と「まばたき」で本を書き上げました。
実際に彼が意図を伝えるのは簡単なことではなく、「ESARINTULOMDPCFBVHGJQZYXKW」と書かれたカードの、該当するアルファベットのところで、彼が「まばたき」をし、それを記録するという、気の遠くなるような作業の繰り返しでした。この本一冊についやした「まばたき」は 20万回にのぼると言います。
彼のまばたきを記録したのはクロード氏です。クロード氏が著者について語った文章が、あとがきに載っています。
クロードは、出版元ロベール・ラフォン社から派遣されたフリーの編集者で、ボービーの状態についてはあらかじめ説明を受けていた。それでも、初めて彼の姿を見た時には、ショックのあまりうろたえたと言う。そんな彼女を励まし、リラックスさせたのは、当のボービー本人だったそうだ。「パニックにならないで」と、まばたきで語りかけて。
「それが、彼が私に最初に言ってくれたことばでした。どれほど勇気づけられたかわかりません。ユーモアのある人だ、と思いました。書き取りは、毎日午前十一時半から三時間行いました。彼は私が行く前に、文章をすべて完成させておいて、しかもそれを完璧に暗記していたのです。即興で作る文はひとつとしてありませんでした。」
本を通じて、貫かれるのは非常に豊かな発想とユーモアです。彼の心が、潜水服から解放され、蝶のように空想の世界を飛びまわり、読者に訴えかけてきます。
例えば、このアルファベット表に対する文章だけで、彼のセンスの良さが分かるでしょう。
ESARINTULOMDPCFBVHGJQZYXKW
一見無秩序な、その連なり方。アルファベットがばらばらになってはしゃいでいるようだが、実は学問的な計算から、単語の使用頻度に基づいて、並べ変えた順番だ。いわば、フランス語における文字のヒットパレードみたいなものなのだ。
というわけで、一番になった Eは喜び跳びはね、しんがりの Wは、振り落とされてなるものかとがんばっている。Bはひどく格下げされた上、いつもまちがえられる Vと隣どおしで、すっかりむくれている。<私> (je) という語のもとになり、数多くの文章の冒頭におさまるプライドの高いJは、なぜこんなに下位なのかと、驚いている。太っちょの Gは、いつもの順位をHに横取りされて仏頂面だし、<きみ><おまえ> (tu) というやさしいことばを作る Tと Uは、引き離されなくてよかったね、と喜びを分かち合っている。
この本は映画になり、2007年カンヌ映画祭で監督賞を受賞しました。2008年 2月から、日本でも上映されるそうです。行くと泣いてしまいそうで、行くかどうか迷っています。DVDになってから、一人でひっそり観た方が良いかも。
ちなみに、作者は、本の発売 2日後に死亡しました。更に、私がお会いしたことのある、翻訳に関わった方の一人も、亡くなっており、何とも複雑な気分になりました。
一人でも多くの人が、この小説に触れることを望みます。
(追記)
この本を教えてくださった方が、「潜水服は蝶の夢を見る」という映画の試写会に招待されたそうですが、面白かったと言っていました。厳しい眼を持った方なので、その言葉は信頼できます。一見の価値ありだと思います。