国家なる幻影
今日は、病院前の磐越西線の線路を、SLが走っていました。雪の中を走るSLは幻想的な雰囲気を感じさせました。時々あるイベントの一つですが、職場から見えるというのは何か得した気分になります。
先月友人から贈られた「国家なる幻影(石原慎太郎著)」という本を昨日読み終えました。司馬遼太郎にしても然りですが、自分独自の史観を持っているのは大事なことで、読み手はその史観を体の中に一度通すことで、現代起こっていることをまた違った角度から眺めることが出来るようになります。彼も彼しか知り得ない情報を分析し、彼しか出来ない体験の中から、無二の史観を確立したのではないかと思います。ありふれた良識や、大衆迎合的な意見にとらわれることなく、その裏にあるものを絶えず意識し、行動出来る人はそうはいないのではないでしょうか。また、損を承知で自分を貫く潔さは見習わなければいけません。
ただ、医学論文のように誤読をさせない文章を嗜む私としては、文学者の以て回ったような文章は時に煩わしく、伝える情報が簡単なことであっても敢えて難しい表現を使うことに奇異さを感じました。複雑な内面を語る時には、そのような表現方法は避けられないでしょうが、文章のほとんどがそうなっているのは、文体という作家のアイデンティティに関わる問題なのかもしれません。