ホテルが変わっても、朝食のメニューはあまり変わらない。しかし、このホテルの料理は特に美味い。日本人の家族が食事をしている姿が見える。こう
して外国で日本人を見た時、その人達がどういうことでここに来ているのか推測するのも楽しい。
もう少しホテルでゆっくりしていたいが、今日は朝から予定が入っている。そう、聴診器など診察道具を探す予定。こちらの医師がどんな診察道具を使っ
てい
るかは日本の医師として非常に興味がある。プラハ行きの列車を待つ間、買いに行くこととした。幸い店の大体の場所は昨日伊藤さんが調べてきてくれている。
朝8
時半にホテルを出て、その店の場所に向かった。
ホテルから、大体の北の方角へ向かって歩く。大通りから少し奥に入り組んだ路地なのだが、進んでいくうちにどんどんわからなくなる。とはいえ、地
図に載っている通りを何度か見つけ、およその位置を知る。店の名前を通行人に聞くが、誰も知らない。あまり普通の人が使う店ではないのだろう。独力で探せ
ということらしい。
ちょうど9時くらいに店を見つけた。ウィーン大学のすぐ近くだ。早速店に入る。開店してすぐなので店員が慌ただしく働いている。「Good
morning!」と話しかける。「I want a hammer for neurological finding, and
stetho.」。滅茶苦茶な英語だが、一応神経所見を取るためのハンマーと聴診器が欲しいと伝えたい。今まではこの程度の英語で雰囲気だけで伝えてきた
が、今日は
「What?」と返された。まず、「hammer for neurological
reflex.」と自分の手を打腱器で叩く仕草をする。しばらくしてやっと「Oh!
hammer.」と気付いてくれた。出してくれた打腱器には「トレムナー・モデル」と書いてある。トレムナーは有名な神経学者で、今日でも、我々神経内科
医は彼が発
見し
た診察法を一部利用して診察をしている。トレムナー徴候という病的反射がそれだ。知り合いの医師がフランスで買った打腱器、或いは我々が普段使用する日本
式、アメリカ式の打腱器とはかなり違う。ずっしりと重く頑丈である。使いこなすのがかなり大変そうだ。日本でお世話になっている医局の先生達へのお
み
やげとして同じものを3個買った。このハンマーが、帰国する時に大問題を引き起こすことになるのだが、この時には新しいハンマーを手に入れたことで有頂天
に
なっていた。
続いて、聴診器を買わなければならない。「stetho」といって通じないのなら、ジェスチャーで示すしかない。俺のジェスチャーを見た店員が
「stethoscope」と言って、聴診器を見せてくれ
た。日本の医療現場のように「ステートスコープ」を「ステート」と略して言うと通じないらしい。見せてくれた聴診器は日本で最もスタンダードに使用されて
いる、「Litmann」というモデル
だった。それも俺が使っているのと全く同じモデルだったから、今回は聴診器の購入はあきらめた。
店から今度はホテルへ向かって走る。9時30分にホテルで伊藤さんと待ち合わせていた為、ほとんど時間がない。汗だくになってホテルに着くと、伊藤さん
が待っていて、「列車の時間には余裕があるから、そんなに急がなくて良かったのに。診察道具は手に入りました?」と言ってくださった。少し休んでから、タ
クシーでSudbahnhof(ウィーン南駅)へと向かう。「ここが渋滞してるとなかなか進まないのよ」という話を聞きながら、でもタクシーはスムーズに
駅に着いた。列車は10時34分発なので40分くらい時間がある。駅の構内で飲み物を購入。
それでも時間が余っていたので、伊藤さんが提案をした。「1等席の客だけが使えるフロアがあるんですけど、どうですか?」と。早速利用することに す る。フロアは新聞が置いてあり、飲み物も自由に飲めるようになっている。飲み物を片手にソファで英字新聞を広げる。すると、正面の客が犬を連れていること に気付いた。2匹の賢そうな犬がこっちを見ている。でも、飼い主の近くの床に寝そべって微動だにしない。「一緒に遊びたいな」オーラを出してみたが、相 手にして貰えなかった。そのとき、さっき買った飲み物を開けるのに、栓抜きが必要なのに気付いた。電車の中で飲もうかと思ったけど、やむを得ない。そのフ ロアで飲み干した。どうせ電車の中でも飲み物くらいは買えるだろう。
10時34分きっかりに列車(EC172)は動き始めた。昨日まで車窓で見たのとまた違う景色広がっている。昨日と比べる、空調が弱くてひどく暑
い。でも、変わる風景に飽きることなく眺めていた。駅名の看板も昼前にはチェコ語に変わり、大きな川が見えたかと思うと、15時24分にプラハに着いた。
駅に着いて驚いた。とても薄汚れた駅である。東欧の諸国が貧しいとは聞いていたが、ブダペスト駅の方がまだ綺麗だ。地下道を歩き、外に出ると、ゴ
ミ箱の周りに大きな蠅がたくさん集っていた。ツアーコーディネーターの人を見つけ、タクシーを呼んで貰う。ブダペストにしても、プラハにしても、安易にタ
クシーに乗ると不当な料金を要求されることが知られているが、今日呼んで貰ったタクシーは安心だ。
薄汚れた街の中を、タクシーで走る。プラハの街並みはとても綺麗なことで知られている。世界遺産都市にも指定されている。だが、街自体貧しいため か、せっかくの建物が埃まみれになっていた。もう少し手入れをすればどの建物もとても立派なのだが。
ホテル「パレス・プラハ」に着いた。チェックインを済ませる。ポーターが荷物を持っていってくれるというのでスーツケースは渡すが、楽器だけは自 分で持って行く。部屋は案外広く、ツインルームのベッドの上に、リンゴが置いてあった。粋なもてなしである。窓の下には「ミュッシャ美術館」が見えた。
昼食を摂っていなかったため、早速散策である。ウィーンと違って、とても道がわかりにくい。「パレス・プラハ」から歩く場合、ヴァーツラフ広場を
把握すると随分道が把握出来るようになる。南に国立博物館が見え、北には繁華街が広がっている。繁華街の方向に向かって歩く。いかがわしい店がかなり目立
つ。そこを抜けて更に北に歩いていくと、市場があった。東アジアを特集したテレビ番組で見たような市場だ。そこを抜けて歩くと、目的とするレストラン
「ミュッシャ」に着いた。
店の内装には、柔らかい線で描かれた布がいくつも飾られている。これが「ミュシャ」という画家の絵なのだろうか。早速プラハの伝統料理を注文す る。特に肉料理が柔らかく、スープもとても美味しい。パンは少し口に合わなかったが、全体的には及第点だった。地元のビールとワインを空け、上機嫌で外に 出た。
また市場を通って、ヴァーツラフ広場へ戻る。ヴァーツラフ広場沿いのいかがわしい店は、さっきより存在感を増している。足早に通り過ぎ、ホテルへ 戻る。
ホテルの部屋に戻り、テレビをつけると、日本のニュースも放送されていた。プラハで見る日本のニュースはあまりにも現実味がない。何とも複雑な気 分でニュースを見て、長旅の疲れを休めた。