ウィーンに来た当初は、毎朝目を覚ましては、いつもと違う天井に「そういえば、ここはウィーンなんだっけ・・・。」と思っていたが、今ではホテル の部屋 も見慣れた風景なように感じる。食堂の受付の女性も、もっと前から知り合いだったかのようだ。もう少しお近づきになりたいと思ったりする。朝食を摂って コーヒーを飲 みながら、周りを見渡す。普段なら慌ただしい筈の朝の時間も、ウィーンだと流れるのが遅い。
バイキングの一角に日本料理があるのを発見。そろそろ味噌汁も恋しくなってきて、口の中にその味が無性に思い出される。食習慣というのは容易に変 えられない。折角ウィーンにいるのだし「日 本に帰ればいつでも食べられる」と自分を説得する。
ハイリゲンシュタットはベートーベンの最も核心に迫る部分。ホテルの前にあるMeidlinghauptstrasse駅から4番の地下鉄で Heiligenstadt行きの電車に乗ればよい。地下鉄はドナウ運河を始めとする景色を提示しつつ進む。駅ごとに入れ替わる人々を見るのは飽きない。 だんだん人々の入れ替わりが少なくなってきて、Heiligenstadtに着いた。駅には狭いながら日本料理の店もある。ウィーンにある日本料理店は、 一体どんな味がするか興味はあるが、心はベートーヴェンの住んでいた家へと向かっていた。
駅前のバス停から38Aのバスに乗り、Kahlenbergで下車する。そこが「カーレンベルクの丘」である。バス停の脇に聖ヨーゼフ協会があ
る。その近くに展望台があり、ウィーンの街が一望できる。眼下
に広がるブドウ畑と、丘を下った先にあるドナウ河。
河に沿って街並みがある。これが数々の音
楽家を育んだ街なのだ。一日中でもそうして感傷に浸っていたかったが、後ろから日本人の老夫婦が現れ、現実に引き戻された。会話の内容から、ただのハイキ
ング目的の妻と、妻に引き連られて来た夫と知った。そういう老後も良いかなと思う。先にKahlnebelg strasseを下ることにした。
この通りを下っていくと、最初は木々に囲まれた道であったが、次第に葡萄畑が開けてきた。葡萄畑越しにウィーンの街が見える。 何を示しているかわからない標識を横目に坂道を下る。 さっきより随分町並 みが近づいてきている。振り返ると葡萄畑越しに山々が 見える。朝はかなり冷え込むのだが、まだ紅葉は見られない。途中、葡萄畑で収穫中の人と会い、挨拶を 交 わす。と、途中から 小川が姿を現した。シュライバーバッハといい、ベー トーヴェン「田園」交響曲のモチーフとなった川だ。
川沿いに遊歩道になっており、犬の散歩をしている女性がいる。この遊歩道はベートーヴェンのかつての散歩道であったとされている。歩 くだけで楽想の湧いてきそうな道だ。残念なことに川は現在、大部分が河岸工事されており従来の面影はあまり残っていないが・・・。道端にはベートーヴェン の銅像が建って いた。更に道を下ると 「Beethovengang」という標識も出てい た。途中でEroicagassに右折して「ハイリゲンシュタット遺書の家」に向うつもりだったが、道 を間違え迷う羽目になってしまった。いったんハイリゲンシュタット駅近くまで 戻ったところ、たまたま歩いていた警官に会い道を聞き出すことができた。Grinzinger Strasseを途中で右折し、まずベートーヴェンが 1817年に住んでいたという家にたどり着いた。現在ホイリゲ(1年以内の新酒を提供する居酒屋。演 奏を聴きながら酒を飲める店が多い。)と なっている。
そこから約数百mのところに「ハイリゲンシュタット 遺書の家」と呼ばれる家がある。建物の壁には銘板が あった。門を入る。しかし丁度、受付の昼休みという ことで入場はできないことになってお り、近くで昼食を摂ることにした。すぐの所に老人ホームがあり、一角がレストランだったので入り、ランチを食べた。ウィーンは老人ホームも時間がゆっくり している。「ハイリ ゲンシュタット遺書の家」に戻ると受付の人 が戻ってきており、無事入場できた。客は私一人でゆっくり見られると思ったのだが、受付の男がロックをラジカセ で大音量で聴いていたため、雰囲気が台無しになってしまった。しかし、最近の研究では、ベートーヴェンが遺書を書いた家ではないという説が有力である。
ハイリゲンシュタットで書いたベートーヴェンの遺書とは、弟カールとヨハンに宛てたもので(但しヨハンと書くべき部分は空欄になっている)、一部
記すと次のような内容だ。
「 おお、おまえたちは私が意地悪く強情で人嫌いのように思い、そのように広言しているが、なぜそんな不当のことをしてくれるのだ。もしそう見えたとして
も、おまえたちはその本当の原因を知らぬのだ。
私の心と魂は、子供の頃から優しさと、大きな事をなしとげる意欲で満たされて生きてきた。だが私が6年前から不治の病に冒され、ろくでもない医者たちに
よって悪化させられてきた事に思いを馳せてみなさい。回復するのではという希望は毎年打ち砕かれ、この病はついに慢性のもの(もしかして治癒す
るにしても何年もかかるだろうし、だめかもしれない)となってしまった。
熱情に満ちた活発な生活で社交も好きなこの私が、もはや孤立し、孤独に生きなければならないのだ。すべてを忘れてしまおうとした事もあったが、聴覚の悪
さがもとで倍も悲しい目に会い、現実に引き戻されてどれほど辛い思いをしたか。もっと大きな声で叫んでください。私はつんぼなのです、などと人々にはとて
も言えなかった。他の人に比べてずっと優れていなくてはならないはずの、以前は完璧で、音楽家の中でも数少ない人にしか恵まれなかった程の聴覚が衰えてい
る、などと人に知らされようかーおお、私にはできない。だから、私が昔のようにおまえたちと一緒におらず、ひきこもる姿を見ても許してほしい。こうして自
分が誤解される不幸は、私を二重に苦しめる。交遊による気晴らし、洗練された会話、意見の交換など、私にはもう許されないのだ。どうしても避けられない時
だけ人中には出るが、私はまるで島流しにされたかのように生活しなければならない。人の輪に近づくと、どうしようもない恐れ、自分の状態を悟られてしまう
のではないか、という心配が私をさいなめるー
賢明な医者が私の気持ちをほぼ察して勧めてくれた。『できるだけ聴覚をいたわるように』という言葉に従って、この半年ほどは田舎で暮らした。人恋しさに
耐
えきれず、その誘惑に負けたこともあった。だが、そばにたたずむ人には遠くの笛の音が聞こえるのに、私には聞こえない、人には羊飼いの歌声が聞こえている
のに、私にはやはり何も聞こえないとは、何という屈辱だろう。
こんな出来事に絶望し、もう一歩で命を絶つところだったー芸術、これのみが私を思い止どまらせたのだ。ああ、課された使命、そのすべてを終えてからでな
ければ私は死ねそうにない。だからこそこの悲惨な人生をたえ忍んできたのだーなんとみじめなことだろう。最上だった状態から突然奈落の底に突き落とすとい
う変化をもたらしたこの過敏な身体ー忍耐ーこれこそが私のこれからの指針でなければならない、そう決心したー呵責ない運命の女神が生命の糸を断ち切る日ま
で、この気持ちを見失わないように願い続けている。(中略)
おまえたちが私よりももっと良い、心配のない生活を送れるように望んでいる。子供たちには徳を薦めなさい。これこそが幸福をもたらすのだ。金ではない。
自分の経験を振り返っても、私を苦悩から救いあげてくれたのはこれだった。私を自殺の危機から守ってくれたこの徳と、そして芸術には感謝しているー(中
略)
これでおしまいだー喜んで死に対峙しようーだが、ただでさえも厳しい運命に加え、死が私の芸術が熟し切る前に訪れぬよう、今しばらく時間を与えたまえー
いや、それまで待ってくれなくとも私は満足だ。死は私をさいなめ続ける苦悩から解放してくれるだろうか?ー死よ、いつでも来るが良い。おまえを勇気を
もって迎えようーさようなら。私が死んでもわすれないでくれ。私はおまえたちを幸福にしようとしょっちょう考えていたのだから。幸せに(後略)(『ハイリ
ゲンシュタットの遺書』今井顕訳、Doblinger出版より)」
数キロ離れたところに、ベートーヴェンが交響曲第3番「英雄(エロイカ)」を作曲した時に住んでいたとされる家があり、そこまで歩く。起伏に富ん だ地形で、楽器を持って歩くには 辛い。いろいろな人に道を聞きながら少しずつ進む。途中で日本風な建物を 発見。「世田谷公園」と標識が出ている。東京の世田谷区とウィー ンが姉妹都 市の契 約を交わしたことで建てられたそうである。
丘を越え、橋を渡り、坂道を上った中腹に協会があり、その手前に目指す「エロイカハウス」はあった。看板や銘板も表示されている。ベートーヴェンが交響曲第3番「英雄(エ ロイ カ)」を作曲したといわれる家だ。諸説あり本当のことはわからない。しかし、1803年当時、この彼が近辺に住んでいたことは間違いない。「デーブリン グ」と呼ばれる地域だ。通りからひとしきり家を眺めた後、門をくぐると中 庭があり、そこから建物に入り階段を上ると受付があった。部屋 は3室からなり、第 1、3室は土地の気風を表す展示。また、この時期にスケッチがされていた「ワルトシュタイン・ソナタ」のファクシミリも展示されていた。「ワルトシュタイ ン・ソナタ」は、パリの「セバスチャン・エラール」から贈られた新型ピアノの影響を強く受けていると言われている。広い音域や、ペダルの発達により、ピア ノ音楽の可能性が更に広がったのだ。ベートーヴェンはこの時期に、「交響曲第5番『運命』」や「ピアノ協奏曲第4番」といった曲のスケッチも始めていたそ うである。第2室には「エロイカ」のファクシミリが展示されていた。彼がここに住んでいた1803年というのは、「クロイツェル・ソナタ」が初演された年 でもあり、次に続く「傑作の森」と呼ばれる黄金期への予兆が感じられる。
Karsplatsの駅に戻り「アン・デア・ウィーン劇場」に 向かった。立派な看板が出ている。この劇場にはベートーヴェンが 1803年と1804年に住んだことがあ り、ここで初演された作品としては「交響曲第2、3、5、6番」、「ピアノ協奏曲第3、4番」、「ヴァイオリン協奏曲」などが知られている。入り口を入る と、一角にベートーヴェンが住んだ当時の風景が再現されていた。
「アン・デア・ウィーン劇場」の裏には、ベートーヴェンが1823年に住んだ家があり、博物館となっている。フランツ・リストがベートーヴェ ンを 訪れたのもこの家なのだ。しかし、私が訪れた時、看板は 出ていたものの博物館はすでに閉館されていた。
クライスラーの生家へはドナウ運河を渡る必要がある。運河を渡ったあと、少し道が入り組んでいるが、
GrosseSchiffgasseと
Nickelgasseのどちらかの通りを見つければ、その交差点に建つ家にたどりつく。「フリッツ・クライスラー」は「愛の歓び」「愛の悲しみ」「美し
きロスマリン」「中国の太鼓」などの小品や、様々なヴァイオリンコンチェルトのカデンツァの作曲、あるいはバロック〜ロマン派の小品の編曲などで知られて
いるが、大ヴァイオリニストとしての彼の録音は今でも愛聴されている。また、あまり知られていないことだが、彼は軍医の資格も持っている。外には看板も出
ており、期待に胸を躍ら
せて建物の中へ入っていったが、現在は普通の民家になっていて、
彼の生まれた部屋を訪れることは叶わなかった。
ホテルに戻って少し楽器を弾いてみる。軽く音を出してみたのだが、「楽器自身が良く鳴る感じ」がする。日本で音響の良い場所で弾くと、豊かな響き が返ってくるが、その響きが楽器の中から出てくる感じだ。いつかウィーンで舞台に立てる日を夢見て楽器をしまった。どんな小さいホールでもいい。
楽器に夢中になっていたせいで食事をする時間がなくなり、コンサート会場近くのマクドナルドで食事を摂った。ウィーンに来て食べる食事ではないが 仕方ない。味は日本とそう大差なかった。時間がなかったので、店が日本とどう違うかあまり観察出来なかった。
今夜のコンサートは、コンツェルトハウスのモーツァルト・ ザールで行われる。ホール自体はそれ程大きくない。 演奏するのはモーツァルト当時の衣装を再現して演奏する「モーツァル ト・ヒストリカルオーケストラ」という団体である。要はコスプレということになるのだろうが・・・。演奏会自体は、娯楽性の高いものだった。演奏 会の最中 でもみんな平気で写真を撮っており、オーケストラ側もそれを黙認していた。衣装はとても凝っていたが、楽器はモダン楽器が使用されており、 あまり一貫性は なかった。「教養ある遊び」的な感覚なのだろう。エンターテイメントとしては最高級のものだった。演奏はすばらしく、音も「ウィーンの音」と良く言われる 柔らかい音色だった。ヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」(モーツァルト)のソロを弾いたBettina Gradingerの演奏が特に素晴らしく、フレージングがとても自然だった。モーツァルトの音楽として音楽的にとても聞きやすかった。また、音 にとても エネルギーがあった。残念だったのはカデンツァを弾いてくれなかったことくらい。ウィーンには名前の売れていない名手がたくさんいると聞いたことがある が、彼女もそのうちの一人だろう。アンコールはラデツキー行進曲だったが、指揮者が観客の拍手を指揮していて、途中で指揮棒を隠したり出したりしながら遊 んでいたのが印象的だった。